1941年(昭和16年)の海戦





ハワイ海戦(米国呼称:真珠湾奇襲)[1941年(昭和16年)12月8日]
    太平洋戦争開戦初日に行われた日本海軍・空母機動部隊によりハワイ奇襲作戦。
当時どの国も行っていなかった主力空母の集中運用による艦隊を編成し、その上太平洋航路を敵に悟られること無くハワイまで進出、攻撃した作戦である。
この攻撃により米太平洋艦隊の主力戦艦群は壊滅したが、空母が真珠湾不在であったため打ち漏らしたこと。ハワイの地上施設攻撃に徹底を欠いたことが作戦上の批判の対象となり、また宣戦布告の遅れから『だまし討ち』として米国の宣撫材料に使われるといったことが起こった。
ただ当時の状況から見て、いづれも後知恵の感が否めない。
この作戦によりこれまでの大艦巨砲主義が過去のものとなった大いなる第一歩であった。

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比島航空戦[1941年(昭和16年)12月8日〜]
海戦ではない。
ただ海戦劈頭の日本海軍3大作戦において航空機の威力をもっとも有効に活用した戦いがフィリピン航空撃滅戦である。
米軍の駐留するフィリピンを攻略すべく準備をすすめた日本海軍はハワイ作戦に投入された主力空母以外の小型空母3隻をこの作戦に投入する予定であった。
当然米軍も日本軍が攻めて来るとすれば空母を使うだろうと判断していた。
しかし海軍航空隊の搭乗員達は新鋭機零式艦上戦闘機(以後零戦)の航続力をもってすれば台湾〜フィリピン間の往復は可能であると判断した。これにより徹底した航続距離延長の為の訓練を行い、ついに台湾からの航空攻撃可能と軍上層部が判断するに至る。
小型空母は他の作戦に転用することとなった。
台湾に集結した海軍航空隊は海戦とともに比島を目指し進撃、ついにフィリピンの制空権を握るにいたった。
この時米軍はフィリピン近海に居るであろう空母を血眼になって探しつづけたと言う。
この戦いこそ零戦の真価を発揮した戦いであった。





マレー海戦[1941年(昭和16年)10月10日]
開戦劈頭に発生した英艦隊 対 日本海軍航空部隊による海戦。
そして史上初の航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した海戦である。
これにより大艦巨砲主義は完全に過去のものとなった。(ハワイ作戦後、大艦巨砲主義者達は沈められた戦艦は航行中ではなかった。と考えを変えなかった。)
当時の常識から英艦隊は航空機の攻撃範囲の遥か遠方を航行しており、作戦上の過失は無いものと考えられている。
しかし欧州航空戦の常識から実に2倍もの作戦行動半径を有した日本海軍航空隊の前にあえなく撃沈されることとなった。
艦隊の上空直援機もなく、殆ど一方的に攻撃を受けるだけだったという。
英首相チャーチルにとって、戦争中もっとも心理的ダメージを受けたのがこのマレー海戦の報告であったという。

余談ではあるが、航空機優勢をしめしたこの戦いの直後、史上最大の戦艦『大和』級が竣工し、日本海軍は時代に逆行した。
そしてこれ以降、日本軍が敵戦艦を撃沈することは無かったのである。





ウェーク島沖海戦[1941年(昭和16年)12月8日]
開戦劈頭に行われた各方面に対する作戦の内、唯一失敗した戦いがウェーク島攻略作戦であった。
中部太平洋方面を担当する井上茂美中将指揮下の第4艦隊はグァム島・ウェーク島を攻略目標としていたが、防備不十分のグァム島は陸軍の南海支隊が上陸後僅か1日で攻略した。
一方海軍単独であたったウェーク島攻略戦は第6水雷戦隊(司令官:梶岡定道少将)と特設巡洋艦2隻によって輸送された陸戦隊2個中隊500名によって行われた。
しかし作戦指揮をとった梶岡少将が上陸作戦を指揮するのはこれが初めてであり、敵前強襲上陸に対する訓練欠いた日本海軍にミスが続発した。
奇襲上陸を目指し夜間2隻の特設巡洋艦から上陸用の舟艇『大発』がデリックで海上に降ろされたが、波・うねりが大きく大発の損傷・転覆が相次いだため夜間上陸作戦は延期された。
翌日強襲上陸に先立ち艦艇による艦砲射撃を実施、地上施設に損害を与えたものの不用意に近づきすぎた艦隊に対しウェーク島守備隊が砲撃による反撃を開始、駆逐艦『疾風』が沈没する。
事前の航空攻撃であらかた防衛兵力を潰していると判断していた日本軍は急ぎ退避行動に移ったが、この間に米海軍機の生き残りが緊急発進、反撃を行ってきた。
この航空攻撃によりさらに駆逐艦『如月』を失いウェーク島上陸作戦中止を決定、艦隊はグウェゼリン基地に引き返した。

後日・・・

井上中将はハワイ作戦作戦から引き上げ中の第1航空艦隊に増援を要請、第2航空戦隊(司令官:山口多門少将)指揮下の空母『蒼龍』『飛龍』他がウェーク島攻略作戦に参加した。
12月21日、艦載機による空襲と増強された陸戦隊(3個中隊)による攻略作戦ではあったが、上陸作戦の不手際は今回も多かった。
米軍防衛隊との戦いの末23日に攻略に成功するが、日本軍側も多くの損害があった。

この上陸作戦の際の不手際を教訓に次の作戦に活かされた・・・と言う事はなく、日本軍は終戦まで改善することはなかった。