艦隊編成(航空艦隊)
太平洋戦争中の艦隊編成

(注) 各航空隊司令職にある方々の階級ですが、未確認の方が多数います。
間違っている可能性が大いにあります。ご了承ください。
少将以上の階級の方に関しては大丈夫だとは思いますが・・・

第一航空艦隊
解説
空母部隊(真珠湾攻撃〜ミッドウェー作戦)

世界初の航空母艦を中心に、そして集中配備した艦隊である。
太平洋戦争初期において、まさに無敵艦隊の名を欲しいままにしたとも言える艦隊であり、四個航空戦隊7〜8隻の空母を保有していた。
この艦隊がもっとも戦果を上げたのが開戦劈頭の真珠湾攻撃から1942年(昭和17年)4月のインド洋作戦の時期である。
だがこの艦隊編制は軍政区分上のものであり、実際の作戦においては艦隊編制が実戦向きの軍隊区分編制であり、第一第二艦隊・他から護衛の艦艇を回してもらった艦隊編制となっている。それは指揮官の名前から『南雲機動部隊』と称される。

南雲機動部隊の艦隊編制

上記リンク先に南雲機動部隊の艦隊編制を記したが、艦隊の主力は第一第二第五航空戦隊の3個戦隊である。第四航空戦隊は空母が小型であり、航続性能の問題から真珠湾攻撃作戦には参加せず、フィリピン攻略支援に参加。インド洋、ミッドウェーといった作戦でも別働隊として行動している。

1942年(昭和17年)6月、第一航空艦隊はミッドウェー作戦に参加した第一・第二航空戦隊所属の主力空母4隻を一挙に失った。この再建には残存する第五航空戦隊第一航空戦隊と改称)・第四航空戦隊第二航空戦隊と改称)をもって新たに第三艦隊として編制されることとなる。この艦隊は開戦以来の艦隊編制のように他の艦隊から借りてきた臨時編制の護衛部隊ではなく、護衛部隊も含めた建制の艦隊として再建されることとなった。この為、第一航空艦隊は解隊され、一時艦隊編制から消えることとなった。第一航空艦隊が再び復活するのは1943年(昭和18年)7月になってからである。(後述)


所属航空隊
1941年(昭和16年)12月 開戦時(司令長官:南雲忠一中将(36期))
第一航空戦隊(第一航空艦隊司令長官直卒)
第二航空戦隊(司令官:山口多門少将(40期))
第四航空戦隊(司令官:角田覚治少将(39期))
第五航空戦隊(司令官:原 忠一少将(39期))



解説
基地航空艦隊・1(マリアナ沖海戦)

1943年(昭和18年)年7月1日、第一航空艦隊が再建されることとなった。この航空艦隊は第十一航空艦隊同様、陸上基地配備の航空部隊であり、日本海軍の決戦兵力として整備された部隊であった。
1942年(昭和17年)8月以降、ソロモン方面で行われている航空消耗戦で相次ぐ戦力の逐次投入と、練度不足の航空隊の投入により海軍航空隊はジリ貧の状況となっていた。
これを挽回すべく編制されたのが第一航空艦隊である。
中途半端な練度のまま戦場に投入されないように考慮され、その為所属は大本営直轄部隊とされ、来るべく決戦に備えて温存された。
指揮下の各航空隊の幹部にも配慮され、司令は若手の中佐クラスを起用。その全てが生粋の航空出身者によって固められた。
各飛行隊長は当時集められるだけの一流の飛行将校が集められ、その多くが真珠湾作戦以来の歴戦の勇者であった。司令長官は闘将 角田中将。作戦参謀は淵田中佐がその任に就き、サポートする大本営の航空参謀には源田中佐が充てられた。
(もっとも当時、このメンバーは最前線の将校からは不評で、『源田一家』などと揶揄されていたようだが・・・)
だが実情はというと実際お寒い状態だったのは否めない。
幹部である司令、飛行隊長は確かに歴戦の者達であったが、実際の飛行搭乗員の殆ど全員が教育部隊上がりのヒナ鳥であったからだ。

基地機動航空部隊と銘打って誕生した第一航空艦隊は、その全飛行隊の集中運用を重視して誕生した。各隊員は最低限の携行荷物だけをもって移動し、身軽に基地移動できるように配慮されていた。
搭乗員もソロモンの敗勢を他所に練度向上を目指して訓練に励んでいった。指揮下の10個航空隊はたちまち練度を上げていったが、それでも一応の仕上がりが見えるのは1944年(昭和19年)8月ごろと見られていた。だが実際にはそれほどの時間は与えられず、戦雲に巻き込まれていった。

1944年(昭和19年)2月、米軍によってマーシャル諸島方面が占領されるに及び、マリアナ防衛の為に、大本営は第一航空艦隊の投入、連合艦隊への編入を決定した(2月15日付で移籍)。マリアナ、西カロリン方面の航空基地に展開することが決定した各航空隊は2月10日頃から移動を開始する。だが飛行場の建設さえも不十分な状況であり、最終的に全航空隊が展開を完了するのは5月ごろになると予想された。
角田中将と一航艦司令部は2月20日にテニアン島に移動し司令部を開設した。だが同時に進出する予定だった航空隊の内、攻撃(戦闘機)戦力の中心、261空(虎部隊)は前日に鹿児島から千葉県香取基地に移動後司令部と共にマリアナに進出する予定だったが、悪天候に阻まれ不時着機が続出。結局261空のマリアナ進出は遅れてしまう。
2月22日、マリアナに進出した航空隊の内、もう一つの攻撃(陸攻)戦力の主力である761空(龍部隊)と、偵察任務の121空は早速陸攻・偵察機による東方700海里の索敵哨戒を開始した。2月17・18日に最大の根拠地トラックが空襲を受けている為、いつ敵機動部隊の襲撃があってもおかしくない状況であった。そして14:00、『敵機動部隊見ゆ・・・』の第一報が届けられたのである。
角田中将は直ちに持ち前の闘志を発揮し、攻撃隊の発進準備を命じる。だが戦闘機部隊261空の主力は未だ硫黄島までしか進出しておらず、サイパン到着は翌23日の予定であった。淵田中佐は退避を進言し、戦闘機隊のは硫黄島に留めて置くように進言する。翌日の進出では敵機来襲には間に合わないうえ、もし来襲中に到着しても混乱が生じるだけである。現在マリアナに居る戦闘機戦力だけでは数が足りず、また進出直後である為直ちに攻撃に向かっても太刀打ち出来ないであろうとの判断だった。
結局司令部では揉めているうちに時間が過ぎ、翌日の来襲が確実な為、進出している761空による夜間雷撃を決定。22日夜間に雷撃隊が、翌朝未明から戦闘機隊・艦爆隊による黎明攻撃を目指して出撃していった。また防空戦闘機隊も早朝から発進し警戒を続けているときに米機動部隊艦載機延べ350機がサイパン・テニアンに来襲した。
2月23日、1日だけの戦闘により日本軍は94機を失い、761空飛行隊長布留川泉大尉が戦死した。
海軍の期待を背負って進出した一航艦先発隊は僅か1回の戦闘で戦力を消耗したのであった。(敵に与えた戦果は不明であり、ほとんど戦果らしいものは無かった。)

3月30日、米機動部隊がニューギニア北岸を西進する米・マッカーサーラインを支援すべくパラオを空襲した。事前にパラオ来襲を察知した連合艦隊司令部は集結地であったパラオを脱出していたが、飛行艇でダバオに後退するはずだった司令部が悪天候により遭難、これにより古賀連合艦隊司令長官が戦没するという事態が発生した(海軍乙事件)。
ただちに指揮権を継承した南西方面艦隊司令長官高須中将は全部隊に作戦命令を発するが、ここでも問題が発生していた。高須中将の司令部はスラバヤに有り、まさにマッカーサーラインの進撃上にある(ように見える)。その為今後の米軍の対処に戸惑った挙句、前面の敵に注意が向いてしまった。この結果マリアナ諸島に集結しつつあった第一航空艦隊の航空兵力を西部ニューギニア防衛の為に転用する命令を下してしまった。急遽ニューギニアに移動した一航艦各隊ではあったが、元々同方面の基地整備はおざなりであり、移動途中のパラオでの爆発事故、現地のマラリア等の防疫対策、実に移動した480機の内、約半数が事故等により破損・消耗してしまった。(そして戦果なし)
米・ニミッツラインによるマリアナ侵攻が行われた6月、急遽マリアナに呼び戻した戦力は決戦『あ号作戦』(マリアナ沖海戦)においてなんら寄与することなく消滅していったのである。
また5月にはトラック・パラオ面を担当していたもう一つの航空艦隊である第十四航空艦隊が編制後僅か2ヶ月あまりで壊滅的な状態となった。その為指揮下の第二二第二六航空戦隊は5月15日付けで第一航空艦隊の指揮下に編入されることとなった。
第六二航空戦隊は一航艦の連合艦隊編入前に、膨大な部隊数となった為、錬成の終了していない、又は編制した直後の部隊を集めた戦隊であり、あ号作戦には参加していない。)

1944年(昭和19年)8月、あ号作戦は失敗し、マリアナは米軍の手に落ちた。角田中将は航空戦力を失った後、テニアン島の防衛の為地下陣地を構築し抵抗したが戦死(自決)。
第一航空艦隊は8月7日付けで南西方面艦隊の指揮下に移り、次の戦場フィリピン防衛の為に再建されることとなった。


所属航空隊

1943年(昭和18年)8月 再編制時(司令長官:角田覚治中将(39期))
第二六一海軍航空隊(司令:上田猛虎中佐(52期))
第五二一海軍航空隊(司令:根来茂樹中佐(51期))
第七六一海軍航空隊(司令:前田高成中佐(47期) (※1944/2/23壊滅状態となる。)


1944年(昭和19年)1月(司令長官:角田覚治中将(39期))
第一二一海軍航空隊(司令:岩尾正次中佐(51期))
第二六一海軍航空隊(司令:上田猛虎中佐(52期))
第二六三海軍航空隊(司令:玉井浅一中佐(52期))
第二六五海軍航空隊(司令:浦田輝次郎中佐(52期))
第三二一海軍航空隊(司令:久保徳太郎中佐(51期))
第三四一海軍航空隊(司令:小笠原章一中佐(51期))
第三四三海軍航空隊(司令:竹中正雄中佐(51期))
第五二一海軍航空隊(司令:根来茂樹中佐(51期))
第五二三海軍航空隊(司令:和田鉄二郎中佐(51期))
第七六一海軍航空隊(司令:前田高成中佐(47期))
第一〇二一海軍航空隊(司令:粟野原仁志中佐(50期))


1944年(昭和19年)2月15日(司令長官:角田覚治中将(39期)) ※連合艦隊の指揮下に編入
第六一航空戦隊(司令官:上野敬三少将(41期))
(*編制は1944/5/15 従来の第一航空艦隊再編時の航空隊が(ほぼ)そのまま編入されている。)
第六二航空戦隊(司令官:杉本丑衛少将(44期) ※5月1日、大佐から少将に昇進))


1944年(昭和19年)5月5日(司令長官:角田覚治中将(39期)) ※あ号作戦
第二二航空戦隊(司令官:澄川道男少将(45期))
第二六航空戦隊(司令官:有馬正文少将(43期))
第六一航空戦隊(司令官:上野敬三少将(41期))
第六二航空戦隊(司令官:杉本丑衛少将(44期))



解説
基地航空艦隊・2(フィリピン戦〜沖縄戦〜)

1944年(昭和19年)8月、あ号作戦に敗戦後、フィリピン・ミンダナオ島ダバオに後退して再建に掛かった第一航空艦隊は連合艦隊の指揮下から南西方面艦隊の指揮下に移り、来るべきフィリピン防衛に傾注していくこととなる。
本土に残されていた第六二航空戦隊は新設された第二航空艦隊の指揮下に移された為、指揮下にある航空戦力はあ号作戦当時の生き残った航空隊を再建させた分でしかない。その上、多くの航空隊は解隊させられていた。書類上存在する第二二第二三第二六第六一の4個航空戦隊も、飛行場を管理する乙航空隊のみとなっており、戦力としては見込めないものであった。

1944年(昭和19年)10月、米軍・マッカーサー将軍率いる米軍部隊がフィリピンに侵攻し、レイテ島に上陸して来るなか、艦隊再建と対米軍迎撃を行っていた寺岡中将が本土の第三航空艦隊司令長官となる為に呼び戻された。そして大西中将が後任として第一艦隊司令長官に就任した。
既に稼動戦力が少ない大西中将のとった作戦、それが特攻攻撃『神風特別攻撃隊』であった。
その頃台湾に展開していた福留中将率いる第二航空艦隊もフィリピン防衛の為に来援。大西中将は二航艦にも特攻隊を編制・出撃するよう呼びかけるが、福留中将はこれを断った。
未だ纏まった戦力を有する第二航空艦隊では通常攻撃を行うこととし、特攻隊を下策であると判断していた。
だが米機動部隊に対する第二航空艦隊の全力攻撃は僅かに戦果と引き換えに壊滅的打撃を受けてしまう。一方この時点で残存稼動機数30機程度にまで消耗していた一航艦では関大尉率いる神風特攻隊が戦果を上げていた。
その為、以後の作戦において二航艦も特攻隊を編制し、フィリピン防衛線戦において恒常的な特攻作戦が継続されていくこととなった。

1945年(昭和20年)1月、フィリピン南部のミンドロ島を攻略した米軍がついにルソン島上陸を目指して船団を出航させた。この状況に在フィリピン各部隊は急遽転進を命ぜられることとなる。
まず応援としてフィリピンに投入されていた第二航空艦隊に台湾への転進が命ぜられたのは1月6日のことである。そして翌7日〜8日に掛けて第一航空艦隊にも転進命令が発せられた。本来フィリピンに残留すべき筈だったのに。そして第二航空艦隊の解隊と、第一航空艦隊の担当地域に台湾を加え、同地に司令部を移すようにとのことであった。これは第一航空艦隊司令部高級幕僚の生命保全措置であったと言われている。これにより大西中将以下の司令部は台湾に移動し、在フィリピン航空部隊は各個に台湾(そして本土)に脱出を果した。一方脱出を命ぜられたのは航空機と搭乗員だけであり、艦隊の殆どを占める整備員を初めとした地上作業員は武器を手にして山中に立て籠もり、終戦まで抵抗を続けることとなった。

台湾に脱出した第一航空艦隊はフィリピンを脱出した残存航空戦力と、フィリピンに向かう途中で台湾で足止めされた航空隊をかき集めて再建を行う。台湾防衛にあたっても特攻隊を編制し応戦する予定だったが、米軍は台湾を通過し1945年(昭和20年)4月、沖縄に侵攻した。本土からの第五航空艦隊(そして第十航空艦隊)に呼応して台湾から特攻隊を送り込んで作戦を継続する。だが補給が途絶し、器材が失われていく中、5月には戦力を失ってしまう。
軍令部は司令長官大西中将を本土に呼び戻し、以後の指揮は高雄警備府司令長官志摩中将が兼務する。だが航空機を全て失った6月15日、第一航空艦隊は解隊となった。


所属航空隊
1944年(昭和19年)8月(司令長官:寺岡謹平中将(40期) ※〜1944/10/19)
1944年(昭和19年)8月
司令長官:大西瀧治郎中将(40期) ※1944/10/20〜)
(直卒) 第一五三海軍航空隊(司令:高橋農夫吉大佐(47期))
第二〇一海軍航空隊(司令:山本 栄大佐(46期))
第七六一海軍航空隊(司令:前田高成大佐(47期))
第一〇二一海軍航空隊(司令:海東啓六大佐(46期))
第二二航空戦隊(司令官:澄川道男少将(45期)) ※1945/2/5解隊
第二三航空戦隊(司令官:伊藤良秋少将(43期) ※〜1944/9/8)
第二三航空戦隊(司令官:古川 保少将(43期) ※1944/9/9〜)
第二六航空戦隊(司令官:有馬正文少将(43期) ※1944/10/15戦死)
第二六航空戦隊(司令官:杉本丑衛少将(44期) ※1944/10/27〜)
第六一航空戦隊(司令官:上野敬三少将(41期)) ※1944/11/15解隊


1945年(昭和20年)3月(司令長官:大西瀧治郎中将(40期)) ※沖縄戦時
(直卒) 第一三二海軍航空隊(司令:下田久夫大佐(50期))
第一三三海軍航空隊(司令:高橋 勝大佐(56期))
第二〇五海軍航空隊(司令:玉井浅一大佐(52期))
第七六五海軍航空隊(司令:増田正吾大佐(50期))
台湾海軍航空隊[乙空](司令官:中沢 佑大佐(43期))
第二六航空戦隊(司令官:杉本丑衛少将(44期)) ※1945/6/1解隊


第二航空艦隊
解説
1944年(昭和19年)6月15日、あ号作戦直前に編制されたのが第二航空艦隊である。
海軍の決戦兵力として編制され、基地機動航空部隊としてフィリピン防衛の為に編成された航空艦隊・・・とされているが、実情は決戦兵力として大本営直轄航空部隊のうち、あ号作戦に間に合わなかった後発編制の航空隊を集めた部隊と言うべきだろうか。
第一航空艦隊の中心戦力、第六一航空戦隊を補助すべき部隊として編成されていた第六二航空戦隊を司令部直轄として(後に解隊させて)、運用している。

マリアナ諸島陥落後、米軍の次なる侵攻地と思われるフィリピン・台湾・沖縄・本土のそれぞれ対応する捷号作戦において、台湾防衛を担当する航空艦隊として現地に展開した。
米軍のフィリピン・レイテ島侵攻が確定となると、捷一号作戦が発動。同地担当の第一航空艦隊を支援すべく第二航空艦隊もフィリピンに移動した。第一航空艦隊の稼動戦力は30機前後にまで消耗しており、作戦の要である栗田部隊(第二艦隊基幹)のレイテ湾突入を支援するには戦力不足であった。この事態を鑑み、第一航空艦隊司令長官 大西中将は航空機による特攻攻撃・神風特別攻撃隊の編制を決意する。また応援に駆けつけた第二航空艦隊に対しても特攻隊を編制してくるように頼み込んできた。
だが福留中将はこれを拒否。あくまでも通常攻撃による米機動部隊攻撃を主張した。この時点で第二航空艦隊はフィリピンに進出した第一陣約180機を配備していた。これをもって米機動部隊に対して全力出撃を行う。10月24日、日本側判断による大型空母2隻大破、戦艦・巡洋艦各1隻中破(空母『プリンストン』大破、後自沈。他の戦果は不明)。自軍の被害も多数に上った。 翌25日も約100機で攻撃をかけるも敵艦隊を発見できず、突入中の栗田艦隊に対する支援が出来なかった。
一方25日に特攻に成功し第一航空艦隊では、4個隊が突入。関大尉率いる敷島隊が中型空母1隻撃沈、1隻大破。巡洋艦1隻撃沈を報告し、他の2隊が突入(未帰還・戦果不明)、1隊が全機未帰還となった。(米側資料では護衛空母『セント・ロー』撃沈、『キトカン・ベイ』損傷、『ホワイト・プレインズ』損傷、『カリニン・ベイ』大破)
翌26日も2隊が突入。空母2隻に突入に成功し損傷させたと報告した。(米側資料によると護衛空母『スワニー』大破)

この第一航空艦隊の25日の戦果に対し、第二航空艦隊の出撃機数と戦果を比較した場合、効率面で特攻に利があると判断した福留中将は25日夜には一部飛行隊をもって特攻隊編制に踏み切った。ただし、第一航空艦隊があくまでも米空母を一時的にでも使用不能状態にするために特攻隊を採用・編制したのに対し、第二航空艦隊では効率を重視した上での採用であった。

その後フィリピン所在の航空戦力を統一指揮することによって、より効率的にする為第一・第二の両航空艦隊を統合した連合基地航空部隊が編成される。この部隊は南西方面艦隊司令長官 三川中将の許可の下行われ、指揮官を福留中将が務め、大西中将が参謀長格となった。攻撃の主力は特攻隊であり、第一航空艦隊指揮下の特攻隊を第一神風特別攻撃隊、第二航空艦隊指揮下のものを第二神風特別攻撃隊と呼称される様になる。だが戦闘が続くにつれ、第三〜第五神風特別攻撃隊が追加編制され、特攻作戦は泥沼の状況となっていった。
福留中将は特攻機としてまず九九艦爆隊から編制し、次に彗星艦爆をもって編制した。これは航法・任務上、急降下爆撃が適任であると考えられたからであり、また複座機であれば、特攻時の状況が無線で確認しやすいといったことが挙げられた。(単座の爆装零戦では戦果確認機・護衛戦闘機が未帰還となった場合に突撃状況、戦果の確認が困難な為であった。)
使用機種は次第に増え、銀河、月光、天山といった機種も特攻隊に使用されるようになる。
特に航続距離の長い陸上攻撃機『銀河』を装備する763空の銀河特攻烈風隊は、11月に入ってからクラーク基地を発進、ダバオ経由で西部内南洋の要衝ウルシー及びパラオ諸島・に対して在泊中の米機動部隊を狙った特攻作戦を行っている。(ウルシーに3回攻撃、1機が特攻したようだが戦果不明。パラオにも3回攻撃したが1機が特攻したようだが戦果不明)

恒常化した特攻作戦により11月末には既に纏まった航空戦力を維持できなくなった連合基地航空部隊だが、それでも少数機をもってする特攻作戦は継続された。だが1945年(昭和20年)1月になって米輸送船団がミンドロ島を出港、ルソン島リンガエン湾上陸を開始すると航空作戦は不可能となった。
第二航空艦隊では大本営より台湾に転進する旨が発せられ、6日から最初の航空戦力が台湾目指して移動を開始した。
そして1月7日、第二航空艦隊の解隊が決定。第二航空艦隊は第一航空艦隊に統合され、第一航空艦隊がフィリピン・台湾の航空戦力を合わせて指揮することとなった。(これは第一航空艦隊司令部をフィリピンから脱出させるためだろうと予測されている。)
フィリピン航空戦を戦い抜いた第二航空艦隊は、編制以来僅か半年でその歴史を閉じることとなった。


所属航空隊
1944年(昭和19年)6月15日(司令長官:福留 繁中将(40期)) ※新編制時
第一四一海軍航空隊(司令:宇都米二中佐(51期))
第三四五海軍航空隊(司令:立見孝六郎中佐(51期)) ※1944/7/10解隊
第七六二海軍航空隊(司令:柴田文三中佐(50期))


1944年(昭和19年)7月10日(司令長官:福留 繁中将(40期))
(直卒) 第一四一海軍航空隊(司令:埴田照之大佐(48期))
第二二一海軍航空隊(司令:斉藤正久大佐(47期))
第三四一海軍航空隊(司令:岡村基春大佐(50期) ※〜1944/9/30)
第三四一海軍航空隊(司令:舟木忠夫大佐(54期) ※1944/10/1〜)
第六三四海軍航空隊(司令:天谷孝久大佐(51期)) ※1944/10頃から編入
第六三四海軍航空隊
(司令:江村日雄大佐(57期) ※1944/11/15〜)
第七六二海軍航空隊(司令:田中義雄大佐(47期) ※〜1944/9/14)
第七六二海軍航空隊(司令:久野修三大佐(49期) ※1944/9/15〜)
第七六三海軍航空隊(司令:佐多直夫大佐(50期)) ※部隊編制:1944/10/1
第一〇二二海軍航空隊(司令:宇都米二大佐(51期) ※〜1944/8/20)
第一〇二二海軍航空隊(司令:永田英雄大佐(53期) ※1944/8/21〜)
第一〇二二海軍航空隊 ※編入時期不明
九州海軍航空隊[乙空](司令:佐多直夫大佐(50期) ※〜1944/8/20)
九州海軍航空隊[乙空](司令:佐土原親光大佐(46期) ※1944/8/21〜)
第二一航空戦隊(司令官:城島高次少将(40期))
第二五航空戦隊(司令官:菊池朝三少将(45期) ※〜1944/10/23)
第二五航空戦隊(司令官:横井俊之少将(46期) ※1944/10/24〜)


第三航空艦隊
解説
1944年(昭和19年)7月、あ号作戦に敗れた後、本土防衛と捷号作戦に対応する為に編制された航空艦隊であり、東日本及び小笠原諸島を担当する、いわば最終防衛部隊。
この時期の他の航空艦隊と同様、基幹航空戦隊たる第二七航空戦隊(後に第二五航空戦隊が追加)は乙航空隊の部隊であり、指揮下の航空隊は全て直轄戦力として配備された。
但し、本土防空を担当する横須賀鎮守府担当の302空は陸軍の防衛総司令官の指揮の下、東部軍管区・第十飛行師団の指揮を受けている為(防空戦闘時のみ)、第三航空艦隊の指揮下には入っていないが、本土決戦準備の為に再編制された際に第七一航空戦隊の指揮下に編入された。
これは他の地域の防空戦闘機部隊も同様(332空352空)であり、後に第七二航空戦隊の指揮下に加えられた。

本土近海に接近する米機動部隊に対し、特攻隊を編制。特攻攻撃を行ったり、マリアナに展開する米陸軍航空隊に対する特攻攻撃や、本土防空戦に協力した。
硫黄島陥落後、沖縄戦に協力する為に一部航空部隊を九州に派遣し、第五航空艦隊の指揮下に臨時編入させている。

沖縄戦後、不足する航空戦力を補う為に練習航空隊である第十三練習連合航空隊を第十三航空戦隊に改編。戦力の水増しを図ったが、戦力の向上には繋がらなかった。


所属航空隊
1944年(昭和19年)7月(司令長官:吉良俊一中将(40期))
第二七航空戦隊(司令官:松永貞市中将(41期) ※〜1944/8/9)
第二七航空戦隊(司令官:市丸利之助少将(41期) ※1944/8/10〜)


1944年(昭和19年)12月(司令長官:寺岡謹平中将(40期))
(直卒) 第一三一海軍航空隊(司令:浜田武夫大佐(48期))
第一三一海芙蓉部隊(指揮官:美濃部少佐(64期)) ※1945/2〜
第二一〇海軍航空隊(司令:田中義雄大佐(47期) ※〜1944/12/31)
第二一〇海軍航空隊(司令:三田国雄大佐(50期) ※〜1945/4/14)
第二一〇海軍航空隊
(司令:薗川亀郎大佐(52期) ※1945/4/15〜)
第二五二海軍航空隊(司令:斉藤正久大佐(47期))
第三四三海軍航空隊(司令:源田 実大佐(52期)) ※1945/3編入
第六〇一海軍航空隊(司令:鈴木正一大佐(52期) ※〜1945/2/14)
第六〇一海軍航空隊(司令:杉山利一大佐(51期) ※1945/2/15〜)
第七〇六海軍航空隊(司令:安川正治大佐(47期)) ※1945/3開隊
第七二二海軍航空隊(司令:鈴木正一大佐(52期)) ※1945/2/15開隊
第七二二海軍航空隊(司令:渡辺薫雄大佐(50期) ※1945/3/8〜)
第七五二海軍航空隊(司令:菊岡徳次郎大佐(49期))
第八〇一海軍航空隊(司令:竹中正雄大佐(51期) ※〜1945/2/28)
第八〇一海軍航空隊(司令:江口英二大佐(52期) ※1945/3/1〜)
第一〇二三海軍航空隊(司令:永田英雄大佐(53期)) ※1945/3/5解隊
関東海軍航空隊[乙空](司令:市川 重大佐(48期))
第一三一海芙蓉部隊(指揮官:美濃部少佐(64期)) ※1945/2〜]
第二五航空戦隊(司令官:横井俊之少将(46期))
第二五航空戦隊※1944/12/15編入 1945/2/11解隊
第二七航空戦隊(司令官:市丸利之助少将(41期)) ※1945/4/30解隊


1945年(昭和20年)5月(司令長官:寺岡謹平中将(40期))
第十三航空戦隊(司令官:伊藤良秋少将(43期))
第五三航空戦隊(司令官:高次貫一少将(44期))
第七一航空戦隊(司令官:山本 栄大佐(46期))


第五航空艦隊
解説
1945年(昭和20年)2月、西日本防衛を担当する航空部隊として編成された航空艦隊ではあったが、実体は目前に迫った米軍の沖縄侵攻に対応する為に九州方面に戦力を集中して特攻攻撃態勢をとっていた。
また沖縄戦に備え戦力増援の為、第三航空艦隊からも航空隊を派遣してもらっている。これらの増援部隊を受け入れる為に多数の乙航空隊を指揮下に編制していた。

1945年(昭和20年)3月18日、鹿屋を出発した『彩雲』偵察隊の一部が四国南南東200海里に米機動部隊4群を発見した。米機動部隊は早朝、西日本の飛行場攻撃の為、180海里まで接近して攻撃隊を発進しており、第五航空艦隊では敵機動部隊攻撃のために攻撃隊を送り出すべく準備を進めた。だが九州を初めとする西日本各地の飛行場は早朝から連続空襲を受けていた為、攻撃隊の出撃が遅れた。
また午後には四国の足摺岬南端30〜40海里にまで接近した敵機動部隊に対し薄暮攻撃を計画したが、これも夜間攻撃隊1隊を送り出すだけで終わった。
この四国沖航空戦と呼ばれる航空戦は4日間に及び、3月22日まで続けられることとなる。第五航空艦隊司令長官 宇垣中将は米機動部隊撃滅の為の好機と捉え、戦果拡大を狙って投入可能な航空戦力を出し尽くす勢いで出撃を続けた。それは東京の軍令部が『宇垣はやりすぎだ。このぶんでは米輸送船団が沖縄に上陸する肝心なときにモトも子もなくなってしまう。』と心配させるほどであった。
この航空戦において新鋭『紫電改』を装備する343空が3月19日に初出撃を行い大戦果を挙げた一方、3月21日の追撃のために初出撃を行った721空の『桜花』特攻・神雷部隊が全滅してしまった。
この四国沖航空戦による被害・戦力消耗もあるだろうが、この間の3月20日に東日本の第三航空艦隊からの応援部隊、及び練習航空隊で編制された第十航空艦隊が第五航空艦隊の指揮下に増援として編入された。

1945年(昭和20年)4月、米軍の沖縄侵攻が開始されると、指揮下の航空隊による天一号作戦・菊水特攻作戦が開始される。当初は制空隊、防空隊、偵察隊、一部攻撃隊を除く全軍特攻により航空総攻撃を掛け敵機動部隊を壊滅させ(陸軍航空隊の攻撃目標は輸送船団。一部航空隊は占領された沖縄の飛行場)、後は遂激戦、掃討戦に移行する予定だった。
だが実際には一向に敵機動部隊を殲滅できず、消耗が増大していくだけであった。特攻作戦も次第に規模が縮小し、毎回使えるだけの戦力を投入していくだけの小規模な特攻作戦が継続的に行われるようになった。
5月には練習機部隊である第十二連合航空隊を第十二航空戦隊と改編し、それさえも投入していくこととなった。
結果、菊水作戦は最初の第一号作戦から、6月22日に終了した菊水十号作戦まで行われたが、沖縄は米軍の支配下に置かれ、奪回すねことも、殲滅することも出来ずに作戦は終了した。
以後、一部航空隊による沖縄攻撃は継続されたが、第五航空艦隊は米軍の本土・九州上陸に備え、本拠地は鹿屋から大分に後退。本土決戦準備に備えることとなった。

8月15日、終戦詔勅の直後に第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将が沖縄に向けて最後の特攻を果たし、第五航空艦隊の作戦は終結した。(但し、この最後の特攻が詔勅の直後であった為、様々な問題を後世に残している。)


所属航空隊
1945年(昭和20年)2月(司令長官:宇垣纏中将(39期)) ※新編制時
(直卒) 第二〇三海軍航空隊(司令:吉冨茂馬大佐(55期))
第七〇一海軍航空隊(司令:木田達彦大佐(50期))
第七二一海軍航空隊(司令:岡村基春大佐(50期))
第七六二海軍航空隊(司令:久野修三大佐(49期))
第八〇一海軍航空隊(司令:竹中正雄大佐(51期) ※〜1945/2/28)
第八〇一海軍航空隊(司令:江口英二大佐(52期) ※1945/3/1〜)
第一〇二二海軍航空隊(司令:永田英雄大佐(53期)) ※1945/3/5解隊
南西諸島海軍航空隊[乙空](司令:棚町 整大佐(51期) ※〜1945/4/4)
南西諸島海軍航空隊[乙空]
(司令官:河村 匡大佐(55期) ※1945/4/5〜)
九州海軍航空隊[乙空](司令:佐土原親光大佐(46期) ※〜1945/3/19)
九州海軍航空隊
[乙空](司令官:山森亀之助大佐(45期) ※1945/3/20〜)


1945年(昭和20年)5月(司令長官:宇垣纏中将(39期))
(直卒) 第一七一海軍航空隊(司令:小暮 寛大佐(52期))
第六三四海軍航空隊(司令:江村日雄大佐(57期))
第七〇一海軍航空隊(司令:木田達彦大佐(50期) ※〜1945/5/28)
第七〇一海軍航空隊(司令:横尾義男大佐(51期) ※1945/5/29〜)
第七二一海軍航空隊(司令:岡村基春大佐(50期))
第七六二海軍航空隊(司令:久野修三大佐(49期))
第八〇一海軍航空隊(司令:江口英二大佐(52期))
第九三一海軍航空隊(司令:峰松 巌大佐(48期))
詫間海軍航空隊(司令官:細谷資芳大佐(49期) ※1945/5/5〜 5/8戦死)
詫間海軍航空隊(司令官:松浦 義大佐(49期) ※19455/15〜)
南西諸島海軍航空隊[乙空](司令官:河村 匡大佐(55期))
九州海軍航空隊[乙空](司令官:山森亀之助大佐(45期))
山陰海軍航空隊[乙空](司令官:櫛引誠雄大佐(50期))
内海海軍航空隊[乙空](司令官:荒木敬吉大佐(45期))
西海海軍航空隊[乙空](司令官:佐土原親光大佐(46期))
第十二航空戦隊(司令官:城島高次少将(40期))
第七二航空戦隊(司令官:山本親雄少将(46期))


第十航空艦隊
解説
1945年(昭和20年)3月、練習機部隊として編成されていた練習連合航空総隊(1943年(昭和18年)2月編制)を実戦部隊として特攻攻撃に使用できるように拡張・改編されたのが第十航空艦隊である。
3個連合航空隊(第十一〜十三)を指揮下に収め、第五航空艦隊と共に(指揮下に編入して)沖縄航空戦に協力させようとした。

だが沖縄作戦『天一号作戦』において、当初予定していた菊水作戦が予定通りにならず、ずるずると特攻を繰り返して消耗していくようになると、海軍の沖縄における決戦が本土決戦へと傾き始める。
これにより5月より第十航空艦隊は沖縄戦から引き上げられ、指揮下の練習航空隊は解散、改編となり、2個航空戦隊に再編制、実戦部隊に引揚げられた。この航空戦隊、第七一航空戦隊第七二航空戦隊はそれぞれ第三航空艦隊第五航空艦隊の指揮下に編入、本土決戦用航空戦力とされた。
また残された一部の練習航空隊(主に関東以北及び朝鮮半島の元山)は第十航空艦隊に残されたままであった。

装備機は主に中間練習機と一部実用機であり、低速の練習機と練度未熟な搭乗員まで動員して特攻作戦を行い、戦果を上げられると考えた軍上層部の無能を示す部隊といえる。
特攻に参加した将兵の気持、忠義はともかく、特攻であれば例え練習機であっても突入できるであろうと考え、また編制に踏み切った軍上層部は無能としか評価しようがない。


所属航空隊
1945年(昭和20年)3月(司令長官:前田 稔中将(41期)) ※新編制時
第十一連合航空隊(司令官: 不在? 直轄? )
第十二連合航空隊(司令官:城島高次少将(40期))
第十三連合航空隊(司令官:伊藤良秋少将(43期))


1945年(昭和20年)6月(司令長官:前田 稔中将(41期))
(直卒) 霞ヶ浦海軍航空隊
谷田部海軍航空隊
百里原海軍航空隊
神町海軍航空隊
第二郡山海軍航空隊
松島海軍航空隊
東京海軍航空隊
元山海軍航空隊


第十一航空艦隊
解説
太平洋戦争開戦の約1年前に編制された陸上基地を拠点に展開する航空部隊。
開戦当初はマレー半島、フィリピン・蘭印方面における航空作戦を展開し、緒戦期の日本軍大勝利の立役者的存在であった。第一段階作戦後は南東方面に進出。ラバウルを中心としたソロモン航空戦に参加し、常に最前線で戦い続ける。このソロモン航空戦当時、司令部が存在したニューブリテン島ラバウルに展開した各航空隊を統一して『ラバウル航空隊』と称され(制式名称ではなく愛称)、まさに第十一航空艦隊を指す。
1943年(昭和18年)以降は南東方面担当の水上艦艇部隊である第八艦隊を第十一航空艦隊司令長官 草鹿中将が統一指揮した為、同方面の中心的組織ともいえる。
だがガダルカナル島撤退以降、同方面は米軍を中心とした連合国軍の対日反攻作戦の先鋒となり、反攻作戦が本格化するにつれ第十一航空艦隊、そして日本は劣勢に追い込まれていくこととなる。
絶対国防圏構想により、内南洋の防備を固めるまでの間、ソロモン方面にて敵の侵攻を食い止める計画であったが、本来防備に回すべき資材・器材まで最前線たるラバウルに投入したが敵の侵攻を食い止めることは叶わなかった。そして1944年(昭和19年)2月、南東方面、そして中部太平洋最大の根拠地トラック島が敵機動部隊の空襲によって壊滅的打撃を受けるに及んで、ついにラバウル方面の維持を放棄。第十一航空艦隊をはじめとする同方面に展開している殆ど全ての航空部隊を内南洋に撤収させることとなった。
ここにラバウル航空隊と呼ばれた最前線の精強な航空部隊は消滅した。
だが、第十一航空艦隊の地上員を中心とする部隊・兵員は尚もラバウルに留まり、防衛の為の態勢を維持する。
次第に戦線が日本に近づき、補給が途絶する中、兵士達は自給自足態勢をとり、終戦の日までラバウルにあって、部隊の維持に努めた。


所属航空隊
1941年(昭和16年)12月 開戦時(司令長官:塚原二四三中将(36期))
第二一航空戦隊(司令官:多田武雄少将(40期))
第二二航空戦隊(司令官:松永貞市少将(41期))
第二三航空戦隊(司令官:竹中龍造少将(39期))
(附属) 第三四駆逐隊
りおん丸 慶洋丸 加茂川丸(1942/3/2戦没)
横須賀第一特別陸戦隊
横須賀第三特別陸戦隊


1942年(昭和17年)4月(司令長官:塚原二四三中将(36期))
第二一航空戦隊(司令官:多田武雄少将(40期))
第二二航空戦隊(司令官:松永貞市少将(41期) ※〜1942/5/14)
第二二航空戦隊(司令官:吉良俊一少将(41期) ※1942/5/15〜)
第二三航空戦隊(司令官:竹中龍造少将(39期))
第二四航空戦隊(司令官:後藤英次中将(37期) ※〜1942/5/31)
第二四航空戦隊(司令官:前田 稔少将(41期) ※1942/6/1〜)
第二五航空戦隊(司令官:山田定義少将(42期))
第二六航空戦隊(司令官:山縣正郷少将(39期) ※1942/5/1中将に昇進)
(附属) 第三四駆逐隊
りおん丸 慶洋丸 名古屋丸


1942年(昭和17年)7月(司令長官:塚原二四三中将(36期) ※〜1942/9/30)
1942年(昭和17年)7月
(司令長官:草鹿任一中将(37期) ※1942/10/1〜)
第二二航空戦隊(司令官:吉良俊一少将(41期))
第二四航空戦隊(司令官:前田 稔少将(41期))
第二五航空戦隊(司令官:山田定義少将(42期) ※〜1942/11/16)
第二五航空戦隊(司令官:上野敬三少将(41期) ※1942/11/17〜)
第二六航空戦隊(司令官:山縣正郷中将(39期))
(附属) 第三四駆逐隊
りおん丸 慶洋丸 名古屋丸


1942年(昭和17年)12月(司令長官:草鹿任一中将(37期))
第二二航空戦隊(司令官:吉良俊一少将(41期))
第二四航空戦隊(司令官:前田 稔少将(41期) ※〜1943/1/19)
第二四航空戦隊(司令官:山田道行少将(42期) ※1943/1/20〜)
第二五航空戦隊(司令官:上野敬三少将(41期))
第二六航空戦隊(司令官:山縣正郷中将(39期) ※〜1943/2/24)
第二六航空戦隊(司令官:上阪香苗少将(43期) ※1943/2/25〜)
(附属) 厚木海軍航空隊(司令:山中龍太郎大佐(49期)) ※1943/4/1開隊
豊橋海軍航空隊(司令:柴田文三大佐(50期)) ※1943/4/1開隊
第八〇二海軍航空隊(司令:中島第三大佐(48期) ※〜1943/2/28)
第八〇二海軍航空隊(司令:鈴木由次郎大佐(51期) ※1943/3/1〜)
秋津洲
秋風 太刀風
りおん丸 慶洋丸 名古屋丸 五州丸 最上川丸 富士川丸


1943年(昭和18年)9月(司令長官:草鹿任一中将(37期))
第二二航空戦隊(司令官:吉良俊一少将(41期))
第二五航空戦隊(司令官:上野敬三少将(41期))
第二六航空戦隊(司令官:酒巻宗孝少将(41期))
(附属) 第一五一海軍航空隊(司令:渡辺薫雄大佐(50期) ※〜1943/11/21)
第一五一海軍航空隊(司令:中村子之助大佐(51期) ※1943/11/22〜)
秋津洲
秋風 太刀風
りおん丸 慶洋丸 名古屋丸 五州丸 最上川丸 富士川丸


1944年(昭和19年)1月(司令長官:草鹿任一中将(37期))
第二五航空戦隊(司令官:上野敬三少将(41期))
第二六航空戦隊(司令官:酒巻宗孝少将(41期))
(附属) 第一五一海軍航空隊(司令:中村子之助大佐(51期))
秋津洲
秋風 太刀風


1944年(昭和19年)5月(司令長官:草鹿任一中将(37期))
第一五一海軍航空隊(司令:中村子之助大佐(51期)) 1944/7/10解隊
秋風


1944年(昭和19年)8月(司令長官:草鹿任一中将(37期))
第九五八海軍航空隊(司令:飯田麒十郎大佐(48期))
第一〇五航空基地隊 (※詳細不明)


第十二航空艦隊
解説
1943年(昭和18年)5月、米軍のアッツ島上陸により風雲急を告げる北東方面に対処する為に北東方面艦隊が編制。その際に同方面を担当する水上艦艇部隊第五艦隊の上空直援と航空作戦を担当すべく編制された航空部隊が第十二航空艦隊である。(編制完了(?)は8月)
だが実際のところ第十二航空艦隊が編制完結する前にアッツ島は陥落した。さらにキスカ島からの撤収が完了するとアリューシャン方面作戦はなくなり、艦隊の主任務は千島列島沖の哨戒と防空任務となる。またこの方面は日米共に第二戦線以下でしかなく、主戦線足り得なかった。
北東方面艦隊が解隊され、第五艦隊が任地を離れ、南方戦線に投入されるようになっても第十二航空艦隊は千島列島・樺太・北海道方面の防空任務として残され、最終的には大湊警備府司令長官の隷下に置かれることなる。
元々少数の航空兵力しかなく、米軍も侵攻してくることはなかった為、小規模ながらも終戦まで艦隊は維持された。
この方面の戦闘がもっとも危険な状態になったのが、皮肉にも終戦(1945年(昭和20年)8月15日)後にポツダム宣言・停戦命令を無視する形で侵攻してきたソ連軍との交戦であった。
(実体は陸海軍航空部隊の僅かな機体が出撃し、陸軍第九一師団が交戦状態になっただけではあるが)


所属航空隊
1943年(昭和18年)8月(司令長官:戸塚道太郎中将(38期))
第二四航空戦隊(司令官:山田道行少将(42期)) ※1944/2/20解隊
第二七航空戦隊(司令官:杉本丑衛少将(44期) ※〜1944/1/31)
第二七航空戦隊(司令官:三木森彦少将(40期) ※〜1944/2/29)
第二七航空戦隊(司令官:松永貞市少将(41期) ※1944/3/1〜)
第二七航空戦隊 ※1944/7/10第三航空艦隊に移籍
第五一航空戦隊(司令官:大林末雄少将(43期) ※〜1944/1/29)
第五一航空戦隊(司令官:藤吉直四郎大佐(44期) ※〜1944/2/18)
第五一航空戦隊
(司令官:吉良俊一中将(40期) ※〜1944/3/14)
第五一航空戦隊
(司令官:山田定義少将(42期) ※1944/3/15〜)
(附属) 幌莚通信隊
第五気象隊
第四一航空基地隊(1944年(昭和19年)編制・追加)


1944年(昭和19年)9月(司令長官:後藤英次中将(37期))
第五一航空戦隊(司令官:山田定義少将(42期) ※1944/10中将昇進)
第五一航空戦隊 ※1944/11/15解隊
(附属) 第四五二海軍航空隊(司令:岡田四郎大佐(49期))


1944年(昭和19年)12月(司令長官:後藤英次中将(37期) ※〜1945/3/14)
1944年(昭和19年)12月
(司令長官:宇垣莞爾中将(39期) ※1945/3/15〜)
第四五二海軍航空隊(司令:岡田四郎大佐(49期)) ※1945/1/1解隊
北東海軍航空隊[乙空](司令:藤野 豊大佐(47期) ※〜1945/5/24)
北東海軍航空隊[乙空]
(司令:大橋恭三大佐(48期) ※1945/5/25〜)
千歳方面根拠地隊


第十三航空艦隊
解説
1943年(昭和18年)9月、南西方面を担当する南西方面艦隊指揮下の防空担当航空部隊として編成された航空艦隊である。
インドネシア・マレー半島全域を担当する為広大な地域に航空部隊を展開したが、実際に連合軍が侵攻してくると担当地域を掠めるようにフィリピンに直接侵攻した為、指揮下の航空戦力の一部を第一航空艦隊に移籍させた。
1945年(昭和20年)2月、フィリピンが連合軍の支配下に置かれると、日本本土との連絡線が途絶する。南西方面艦隊が機能しなくなる為、第十三航空艦隊は第十方面艦隊の指揮下に移され、インドシナ防空に専念。またビルマ方面からの英軍による反攻が目立ち始めた為、そちらにも対応するようになった。

艦隊司令長官は基本的に南西方面艦隊司令長官が兼任し、フィリピン戦後、一時的に指揮下を離れたものの、また第十方面艦隊司令長官が兼任するようになった。


所属航空隊
1943年(昭和18年)9月(司令長官:高須四郎大将(35期) ※〜1944/6/17)
1943年(昭和18年)9月(司令長官:三川軍一中将(38期) ※1944/6/18〜)
第二三航空戦隊(司令官:古川 保少将(43期)) ※1944/7/10 第一航空艦隊に移籍
第二八航空戦隊(司令官:小暮軍治少将(41期))
(附属) 第三八一海軍航空隊(司令:近藤勝治大佐(46期))
第三八一海軍航空隊※1944/5/5第二三航空戦隊より分離・移籍
第七三二海軍航空隊(司令:三代辰吉大佐(51期)) ※1943/10/1開隊
第一〇二航空基地隊(※編制時期不明)
第一〇四航空基地隊(※編制時期不明)


1944年(昭和19年)12月(司令長官:大川内伝七中将(37期))
第二八航空戦隊(司令官:小暮軍治少将(41期))
(附属) 馬来海軍航空隊[乙空](司令:篠田太郎八大佐(44期))
東印海軍航空隊[乙空](司令:是枝 操大佐(44期))


1945年(昭和20年)2月(司令長官:田結 譲中将(39期) ※1945/1/8〜12)
1945年(昭和20年)2月(司令長官:福留 繁中将(40期) ※1945/1/13〜)
第二三航空戦隊(司令官:古川 保少将(43期)) ※1945/5/15解隊
第二八航空戦隊(司令官:小暮軍治少将(41期))
(附属) 第十一海軍航空隊(司令:高橋農夫吉大佐(47期)) ※1945/4/5解隊
第十二海軍航空隊(司令:堀江朝茂大佐(47期)) ※1945/5/15解隊
第十三海軍航空隊(司令:三好 恒大佐(45期)) ※1945/5/15解隊
第三一海軍航空隊(司令:武田六吉大佐(36期・召集))
第三八一海軍航空隊(司令:近藤勝治大佐(46期))
第三八一海軍航空隊※1945/6/1第二八航空戦隊より分離・移籍
第九三六海軍航空隊(司令:近藤勝治大佐(46期))
馬来海軍航空隊[乙空](司令:篠田太郎八大佐(44期))
馬来海軍航空隊[乙空]※1945/6/1第二八航空戦隊に編入
東印海軍航空隊[乙空](司令:是枝 操大佐(44期))
東印海軍航空隊[乙空]※1945/6/1第二八航空戦隊に編入


第十四航空艦隊
解説
1944年(昭和19年)3月、絶対国防圏構想に基づき、内南洋防衛担当の第四艦隊に対する航空支援を行う目的で編制された航空艦隊であるが、指揮は上級司令部である南西方面艦隊司令長官が兼任し、直接指揮をとることとなった。

だがトラック諸島、パラオ・・・第十四航空艦隊の担当区域内にある航空基地は次々と米機動部隊の空襲により壊滅状態に追い込まれ、戦う以前に航空機の運用が不可能な状態となった。
このため航空艦隊編制から僅か2ヶ月で航空部隊をマリアナ諸島を中心に展開する第一航空艦隊に移し、事実上壊滅状態となった。


所属航空隊
1944年(昭和19年)3月4日(司令長官:南雲忠一中将(36期))
第二二航空戦隊(司令官:長谷川喜一少将(42期) ※1944/3/29戦没)
第二二航空戦隊(司令官:澄川道男少将(45期) ※1944/3/30〜)
第二六航空戦隊(司令官:酒巻宗孝少将(41期) ※〜1944/4/8)
第二六航空戦隊(司令官:有馬正文少将(43期) ※1944/4/9〜)
(附属) 秋津洲


1944年(昭和19年)5月5日(司令長官:南雲忠一中将(36期))
秋津洲
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               ..