帝國陸軍師団(1)

  近衛師団(近衛第二師団)
通称号   
編成 明治24年12月14日
(昭和18年6月1日、近衛第二師団に改称)
編成地 東京
補充担当 東京
解説 明治維新後に薩摩・長州・土佐の3藩から兵を募って編成された御親兵が明治5年近衛兵と改称。明治24年に近衛師団として創設された。
当初は関東近辺(本郷・宇都宮・佐倉・水戸の連隊区)から徴募されたが、大正期に以降は歩兵・騎兵に関しては全国から徴募されるようになる。他の砲兵・輜重兵・工兵は関東地区(第1・第14師団管区から)からの徴募である。
皇居警護が目的である為、全国から優秀な兵を集める為であり、所謂エリート部隊であった。
日清戦争には動員された時期が遅く、下関講和条約の1ヶ月前だったため殆ど戦闘には参加していないが、台湾平定作戦に参加している。
日露戦争では第一軍所属として朝鮮半島・鎮南浦に上陸後北上、遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加している。
その後は本土に帰還し、皇居の警備につき、戦闘の機会は無かった。
日中戦争開始後の昭和14年11月2日、近衛第一連隊・近衛第二連隊・近衛野砲兵連隊第三大隊を基幹とした近衛混成旅団を編成、華南戦線に投入された。その後翁英作戦・賓陽会戦に参加、近衛第二連隊は北部仏印進駐に参加し、その後本土に帰還した。この近衛混成旅団は後に近衛第一師団へと改編されている。(昭和18年5月14日)
一方残された近衛第三連隊を基幹とした近衛師団は昭和15年6月3日に臨時動員がかかり、新たに近衛第五連隊が新編・編入、漢口・広東方面を転戦し昭和16年7月の南部仏印進駐に参加している。
太平洋戦争開戦時には第二十五軍に所属してマレー方面に配備、自転車を大量に使用した銀輪部隊としてマレー半島を駆け抜け、シンガポール攻略戦に参加した。その後蘭印・スマトラ島掃討作戦に従事して以後同地の警備にあたる。
昭和18年5月14日、近衛第二師団と改称、一部兵力を一時的にアンダマン諸島に配備したが、後日再びスマトラ島に配備、以後終戦までスマトラ島各所に分散待機したまま終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     近衛歩兵第一旅団
近衛歩兵第一連隊(東京)
近衛歩兵第二連隊(東京)
近衛歩兵第二旅団
近衛歩兵第三連隊(東京)
近衛歩兵第四連隊(東京)
近衛野砲兵連隊(東京)
近衛工兵中隊(後に近衛工兵大隊→近衛工兵連隊と改称)
近衛騎兵連隊(東京)
近衛輜重兵大隊(後に近衛輜重兵連隊と改称)
終戦時   近衛歩兵第三連隊(東京)
近衛歩兵第四連隊(東京)
近衛歩兵第五連隊(東京)
近衛工兵第二連隊(東京)

  近衛第一師団
通称号   
編成 昭和18年5月14日
編成地 東京
補充担当 東京
解説 母体となった部隊は昭和14年に編成された近衛混成旅団である。編成直後から華南戦線に投入された近衛混成旅団は北部仏印進駐に参加し、昭和16年1月、本土に帰還した。
太平洋戦争開戦により近衛師団がマレー作戦に参加する為に出撃すると皇居の警備は近衛混成旅団の任務となった。
昭和18年、師団改編により近衛第一師団へと改編された。その際に従来の近衛師団が近衛第二師団と改称された。その後も首都警備任務に従事し、前線へは派遣されずに終戦を迎える。だが、終戦前日の昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾に反対する青年将校たちがクーデターを計画。これにより師団長が殺害されている。その後皇居を封鎖する行動をとったが、翌15日には東部軍司令官 田中静壱大将により解散させられた。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   近衛歩兵第一連隊(東京)
近衛歩兵第二連隊(東京)
近衛歩兵第六連隊(東京)
近衛歩兵第七連隊(東京)
近衛工兵第一連隊

  近衛第三師団
通称号   
編成 昭和19年4月4日
編成地 東京
補充担当 東京
解説 近衛第二師団の留守部隊を基幹に編成された師団である。
昭和20年2月に米軍の本土上陸に対応する為予想上陸地点の一つである千葉・九十九里正面の防衛任務に投入された。千葉県一宮、東金方面で陣地構築中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   近衛歩兵第八連隊(東京)
近衛歩兵第九連隊(甲府)
近衛歩兵第十連隊(佐倉)
近衛工兵第三連隊

  第一師団
   通称号   
編成 明治21年5月14日
編成地 東京
補充担当 東京
解説 東京鎮台を母体に改編された師団であり、その名の示すように陸軍最古の師団の1つである。歩兵四個連隊で編成され、日清・日露戦争に従事している。
日清戦争には遼東半島上陸後、金州城、旅順攻略戦に参加。
日露戦争では第二軍所属で金州・南山方面の戦いに参加。その後乃木将軍指揮する第三軍所属となって旅順攻略戦に参加した。これが二〇三高地の戦いであり、師団主力は全滅に近い損害を受けている。
日露戦争後に師団改編を行い、第二・第十五連隊は新編の第十四師団に移動、代わって第四九・第五七連隊が編入される事となる。東京警備が主任務だったが、昭和11年に満州移駐命令が下される。これは昭和維新を叫ぶ青年将校を中央から引き離す計画であったが、この直後に二・二六事件が発生、第一師団は青年将校が連座して処断される。
以後満州にあって孫呉・チチハル・北安を含む北満州一帯の防衛を担当、蘆溝橋事件の時にはチチハル作戦に参加している。
昭和14年のノモンハン事件には野砲兵第一連隊・各歩兵連隊所属速射砲部隊が増援戦力として出撃、師団主力は戦闘開始前に停戦となり戦闘参加はしていない。
昭和15年の陸軍軍備改編時に3単位制に変更、これにより歩兵第三連隊は第二八師団に移籍していった。
太平洋戦争開戦後は満州防衛戦力として駐屯していたが、戦局の悪化に伴い南方への兵力移動となる。昭和19年11月、フィリピンの戦いに参加、レイテ島逆上陸作戦で奇跡的に西海岸オルモック上陸に成功する。その後北上を開始したところでリモン峠で米軍と遭遇、攻防を繰り広げるも補給も無く増援も無い状況では戦闘継続は不可能であり、50日間にも及ぶ攻防の末撤収、西部カンギボット山に立てこもった。第十四方面軍:山下奉文大将の『自活自戦・永久抗戦』の命令の下、セブ島転進命令により脱出した。
レイテ島上陸時の兵力1万余名は残存戦力僅か800名。部隊は全滅したのである。
部隊編成  創設時     歩兵第一連隊(東京)
歩兵第二連隊(水戸) (第十四師団に転出)
歩兵第三連隊(東京) (第二八師団に転出)
歩兵第十五連隊(高崎) (第十四師団に転出)
野砲兵第一連隊
終戦時   歩兵第一連隊(東京)
歩兵第四九連隊(甲府)
歩兵第五七連隊(佐倉)

  第二師団
   通称号   
編成 明治21年5月14日
編成地 仙台
補充担当 仙台
解説 明治6年に創設された仙台鎮台(東北鎮台)が明治21年に第二師団として改称された。指揮下の連隊の移動が多く、当初の第四・五・十六・十七の4個連隊中、第五、十七連隊は途中第八師団に編入。代わって第二九(会津若松)・第三〇連隊(高田)が編入されたが、昭和15年の改定で第三〇連隊が第二八師団に編入され、以後3単位師団として戦い抜いた。
日清戦争では威海衛攻略戦に従事し、日露戦争では九連城攻撃・遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦と歴戦を続ける。
昭和6年から満州駐箚を命じられたが、9月には満州事変勃発。奉天北大営攻撃に参加する。さらに長春・吉林・チチハル・ハルピンと転戦した。
昭和8年本土帰国。昭和12年には再び満州派遣、ハルピン駐屯を命じられた。だが再び蘆溝橋事件により師団は戦闘を開始する。ただし派遣された部隊は一部兵力だけであり、チャハル作戦・徐州会戦に従事している。
昭和15年、本土帰国。
太平洋戦争開戦時には第十六軍(今村均中将)指揮下の一隊として南方作戦に従軍。昭和17年3月のジャワ島攻略作戦に従事した。以後同島警備任務についていたが、南東方面作戦・ソロモン諸島ガダルカナル島を巡る日米攻防戦に参加が決定し、ガダルカナル島上陸が行われる。先遣隊・青葉支隊(那須弓雄少将)が第2次攻撃隊として上陸・攻撃を行った川口支隊(第三五旅団(福岡)基幹:川口清健少将)と共に上陸・攻撃を行ったが作戦は失敗した。
第二師団主力は10月に順次上陸、24日から総攻撃を開始したが、3度目の攻撃である今回も失敗に終った。この戦いで指揮下3個連隊の連隊長全員が戦死してしまった。以後、補給もままならないガ島では飢えとの戦いが始まる。結局大本営がガ島放棄を決定するまでの間に多くの将兵が餓死することとなった。
その後撤収した師団は兵力再建の為にフィリピンに移動。以後昭和18年9月頃からシンガポール・マレー・蘭印方面の警備にあたったが、昭和19年にビルマ戦線に投入されることになる。この方面でインド-中国間の補給ルート遮断を目的とした『断』作戦に参加する。作戦は失敗に終わり昭和20年2月仏印に退却した。
終戦前には仏印軍武装解除の明号作戦に従事している時に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第四連隊(仙台)
歩兵第五連隊(青森) (第八師団に転出)
 → 後に歩兵第二九連隊(会津若松)が編成される。
歩兵第十六連隊(新発田)
歩兵第十七連隊(仙台 後に秋田) (第八師団に転出)
 → 後に歩兵第三〇連隊(高田)が編成される。 (第二八師団に転出)
終戦時   歩兵第四連隊(仙台)
歩兵第十六連隊(新発田)
歩兵第二九連隊(会津若松)

  第三師団
   通称号   
編成 明治21年5月14日
編成地 名古屋
補充担当 名古屋
解説 明治6年創設の名古屋鎮台を前身とし、明治21年に第三師団に改称。
日清戦争に第一軍所属として元山・仁川に上陸、平壌攻略戦や海城・牛荘の戦いに従軍する。
日露戦争には第二軍所属として南山会戦・遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加した。
その後シベリア出兵に伴い大正7年から1年間、ザバイカル方面で革命軍と交戦、さらにチェコ軍救援作戦に従事した。
昭和3年には第3次山東出兵に動員されている。
昭和9年、満州駐箚を命じられ2年間満州に駐屯、帰国直後に蘆溝橋事件が発生した為、戦火が飛び火した上海の在留邦人救援のため第十一師団と共に上海に派遣された。しかし、中国軍の抵抗は熾烈を極め、更に3個師団(第九十三一〇一師団)が増援されるほどであった。その後戦線はジリジリと進み、ついに総崩れとなった中国軍を追撃、南京攻略戦に参加する。その後昭和13年の徐州会戦・8月の武漢攻略作戦と転戦していく。
太平洋戦争開戦後は中国大陸で警備任務に従事、昭和19年から1号作戦(大陸打通作戦)に参加、第2期作戦にあたる湘桂作戦に参加した。だが作戦は一応成功したが、戦略的には無意味な勝利であった。
その後上海方面に転戦中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第六連隊(名古屋)
歩兵第七連隊(金沢) (第九師団に転出)
 → 後に歩兵第三四連隊(静岡)が編成される。
歩兵第十八連隊(豊橋) (第二九師団に転出)
歩兵第十九連隊(敦賀) (第九師団に転出)
 → 後に歩兵第六八連隊(岐阜)が編成される。
終戦時   歩兵第六連隊(名古屋)
歩兵第三四連隊(静岡)
歩兵第六八連隊(岐阜)

  第四師団
   通称号   
編成 明治21年5月14日
編成地 大阪
補充担当 大阪
解説 明治6年創設の大阪鎮台を前身とし、明治21年に第四師団に改称。
日清戦争時には遼東半島に上陸後,同地を警備。
日露戦争時には第二軍所属として金州・南山・得利寺・大石橋・遼陽・沙河・奉天の各地を転戦する。
昭和12年から満州駐箚、渡満後直ぐに蘆溝橋事件が発生。第四師団はそのまま日中戦争を華北や満蒙方面を転戦する。昭和15年7月に華中方面に移動、漢水作戦・予南作戦・江北作戦に従事した。昭和16年9月には第一次長征作戦に参加している。この作戦後,第四師団は大本営直轄部隊に指定、上海にて南方作戦の為に待機した。
太平洋戦争開戦後は予備兵力として待機していたが、フィリピン戦において失敗した第一次バターン半島攻略作戦を支援するために戦線投入されることになる。
続いて半島先端のコレヒドール要塞攻略戦に参加。
その後本土に帰還したが、昭和18年9月にスマトラ島に配備、そらにその後ビルマ方面に転戦したが、タイに進駐した段階で終戦となった。
部隊編成  創設時     歩兵第八連隊(大阪)
歩兵第九連隊(京都) (第十六師団に転出)
歩兵第十連隊(岡山) (第十師団に転出)
歩兵第二〇連隊(福地山) (第十六師団に転出)
日中戦争 歩兵第八連隊(大阪)
歩兵第三七連隊(大阪)
歩兵第六一連隊(和歌山)
歩兵第七十連隊(篠山) (第二五師団に転出)
独立山砲兵第四連隊(遼陽)
終戦時   歩兵第八連隊(大阪)
歩兵第三七連隊(大阪)
歩兵第六一連隊(和歌山)

  第五師団
   通称号   
編成 明治21年5月14日
編成地 広島
補充担当 広島
解説 明治6年創設の広島鎮台を前身とし、明治21年に第五師団に改称。
日清戦争時には歩兵2個連隊を基幹として大島混成旅団(大島義昌少将)を編成して出征した。京城南方の成歓にて清国軍と交戦・撃破。そのまま平壌攻略戦・鴨緑江渡河作戦・牛荘の戦いに従事した。
日露戦争時には遼陽・沙河・奉天の戦いに参加。
明治44年から2年間の満州駐箚、大正8年のシベリア出兵にも参加している。
日中戦争では華北方面に出撃、万里の長城の内側にそって進撃し、チャハル作戦・太原攻略戦・徐州会戦に参加。その後華南方面で広東攻略作戦に参加後再び華北に移動している。
昭和15年9月、北部仏印進駐に参加した。
太平洋戦争開戦時には第二五軍(山下奉文中将)の指揮下でマレー作戦に参加。開戦と同時にマレー半島のシンゴラ(師団主力)とパタニー(安藤支隊:歩兵第四二連隊基幹)に上陸を果たした。その後マレー半島を南下、クアラルンプール攻略、シンガポール攻略と転戦する。
マレー作戦後、同師団は復員予定だったという。その為、隷下の連隊長、大隊長の内の何人かは復員処理の為の要員として実戦向きではない指揮官に交代したという。だが南東方面への転用が決定し、師団の運命は一転する。また作戦後、師団の3個連隊編制への改編に伴い歩兵第四一連隊が師団から外され、同連隊を基幹とする東支隊を編成。当初フィリピン戦に投入される予定だったが、第十七軍南海支隊に編入されポートモレスビー攻略作戦に従事した。(ポートモレスビー攻略作戦失敗後は撤退、平壌にて再建されたが、そのまま第三十師団所属となった。)
第五師団主力は第八方面軍(今村均大将)の指揮下でニューギニア方面に投入、各地を転戦とし終戦となった。
部隊編成  創設時     歩兵第十一連隊(広島)
歩兵第十二連隊(丸亀) (第十一師団に転出)
歩兵第二一連隊(浜田)
歩兵第二二連隊(松山) (第十一師団に転出)
日中戦争 歩兵第十一連隊(広島)
歩兵第二一連隊(浜田)
歩兵第四一連隊(福山) (三個連隊編制改編時に抽出 第十七軍 → 第三十師団に転出)
歩兵第四二連隊(山口)
終戦時   歩兵第十一連隊(広島)
歩兵第二一連隊(浜田)
歩兵第四二連隊(山口)

  第六師団
   通称号   
編成 明治21年5月14日
編成地 熊本
補充担当 熊本
解説 明治6年創設の熊本鎮台を前身とし、明治21年に第六師団に改称。前身の熊本鎮台は西南戦争の際に西郷隆盛率いる薩摩軍の攻撃を熊本城に篭城して撃退した部隊とて有名である。
日清戦争時には山東半島から上陸、威海衛攻略戦を始め各地を転戦。
日露戦争時には沙河会戦等に参加している。
大正12年からの2年間、満州駐箚により駐屯。本土に戻った後昭和3年の第2次山東出兵により再び大陸に移動している。
満州事変以降は熱河作戦に参加、中国軍追撃により万里の長城まで進出した。
日中戦争では華北方面にて作戦行動、永定河・保定・石家荘等を転戦、さらに第十軍に編入されて杭州湾上陸作戦に参加している。この敵前上陸によって総崩れとなった中国軍を追撃し南京まで進撃、南京攻略戦に参加している。その後徐州会戦・武漢攻略戦と転戦した。
太平洋戦争では南東方面を担当する第十七軍(司令官:百武晴吉中将)の下に編入。ガダルカナル戦では当初第六師団がガ島に派遣される予定だったが、大本営のガ島放棄決定により、同じソロモン諸島のブーゲンビル島に進出した。歩兵第十三連隊だけはニュージョージア島に配備されたが、ムンダ飛行場を巡る攻防戦で大損害を出しブーゲンビル島に後退している。
以後、米軍はブーゲンビル島西岸タロキナに上陸し橋頭堡を確保したが積極的に攻勢はしてこなかった。逆に第六師団は2度に渡る総攻撃を行ったが失敗した。その後同島担当がオーストラリア軍に替わった途端、積極的に攻勢に出た。第六師団は敗退しつづけ、南端のブイン地区に立てこもった段階で終戦を迎えている。
部隊編成  創設時     歩兵第十三連隊(熊本)
歩兵第十四連隊(小倉) (第十二師団に転出)
 → 後に第四五連隊(鹿児島)が編成される。
歩兵第二三連隊(築城)
歩兵第二四連隊(福岡) (第十二師団に転出)
 → 後に第四七連隊(大分)が編成される。 (第四八師団に転出)
終戦時   歩兵第十三連隊(熊本)
歩兵第二三連隊(築城)
第四五連隊(鹿児島)

  第七師団
   通称号   
編成 明治29年5月12日
編成地 札幌
補充担当 旭川
解説 第七師団の母体となったのは明治18年に発足した北海道開拓団防衛部隊である屯田兵(平時は開墾・農耕、有事は兵隊の半農反兵のこと)である。
日清戦争後、屯田兵を母体に師団編成されたが、当時の師団・連隊編成は地域毎の郷土兵方式であったが、北海道の人口は少なく、不足分は師団管区外の東北や関東から補充していた。
日露戦争時に、旅順攻略戦の増援戦力として雪国師団として第七師団の投入が決定、第三軍(司令官:乃木希典大将)の指揮下で203高地の戦いに参加している。旅順攻略戦後は各地を転戦、奉天会戦に参加した後帰国している。
大正6年から2年間、満州駐箚を命じられたがその間にシベリア出兵にも参加している。昭和9年に1年間、さらに昭和11年からも都合3度の満州駐箚を命じられている。
日中戦争後も満州にあって張鼓峰事件ノモンハン事件にも国境紛争に出撃、ノモンハンで大損害を受けている。
太平洋戦争時は北海道防衛が主任務であったが、まず第二八連隊を基幹とする一木支隊(一木清直大佐)を編成、同隊はミッドウェー作戦に参加する予定であったが、作戦の失敗によりグァム島に後退。待機中のところを米軍が南東方面・ソロモン諸島ガダルカナル島に上陸したとの報により同方面に転用される事となった。一木支隊主力はガ島上陸後米軍によって制圧されたルンガ飛行場奪回を目指し進撃したが、軽装備の武装しかなく、また米軍を舐めてかかった結果全滅した。
一木支隊残存部隊も第2梯団として第2次攻撃用として増援派遣された川口支隊と共にガ島に上陸したが、これも作戦に失敗した。
第七師団の一部はさらに北千島にも派遣されたが、基本的には北海道防衛に従事して終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第二五連隊(札幌)
歩兵第二六連隊(旭川)
歩兵第二七連隊(旭川)
歩兵第二八連隊(旭川)
終戦時   歩兵第二六連隊(旭川)
歩兵第二七連隊(旭川)
歩兵第二八連隊(旭川)

  第八師団
   通称号   
編成 明治31年10月1日
編成地 弘前
補充担当 弘前
解説 日清戦争後の軍備拡張計画によって編成された師団の1つであり、東北地方(青森・岩手・秋田・山形)から徴兵された兵士によって編成された。
第八師団(歩兵第五連隊)は対ロシア戦を想定した訓練の一貫として耐寒訓練の最中、八甲田山で兵士21名が遭難すると言う事故が発生、199名が犠牲になった日本軍事史上希に見る大惨事を起こしている。(明治35年1月)
日露戦争では奉天会戦の前哨戦である黒溝台の戦いに参戦、その後奉天会戦に参加した。
その後朝鮮半島駐屯、シベリア出兵(北樺太進駐)を行っている。
満州事変では先発部隊として第四混成旅団を編成・派遣、つづいて師団主力が派遣されて熱河作戦に参加した。昭和12年に満州駐箚により再び渡満、関特演(関東軍特種演習)に参加した。その後指揮下の第三二連隊が第二四師団に編入される。
太平洋戦争中も満州に駐屯したが、昭和19年に日米決戦の地、フィリピンに転出命令を受け進出。師団主力はルソン島に配置、第五連隊を基幹とした高階支隊(高階於菟雄大佐)はレイテ島に派遣されたが高階支隊は全滅した。その後師団主力は振武集団(のちに第四一軍)中核として米軍と交戦、マニラ東方で防衛戦を展開中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第五連隊(青森) (第二師団より編入)
歩兵第十七連隊(秋田) (第二師団より編入)
歩兵第三一連隊(弘前)
歩兵第三二連隊(山形) (第二四師団に転出)
歩兵第五二連隊(弘前) ※当初編号されていたが、後第一〇八師団に編合(後、第五七師団に転出)
終戦時   歩兵第五連隊(青森)
歩兵第十七連隊(秋田)
歩兵第三一連隊(弘前)

  第九師団
   通称号   
編成 明治31年10月1日
編成地 金沢
補充担当 金沢
解説 日清戦争後の軍備拡張計画によって編成された師団の1つであり、北陸地方(富山・石川・福井)から徴兵された兵士によって編成された。
日露戦争では乃木希典将軍率いる第三軍の指揮下で旅順攻略戦に参加、続いて奉天会戦に参加している。
その後朝鮮半島に駐屯、更にはシベリア出兵をしている。
昭和7年の第一次上海事変にも出動、昭和10年からは2年間の満州駐箚、帰国した直後に蘆溝橋事件が勃発した為、飛び火した上海に投入されることとなった。そのまま中国軍を追撃dw南京攻略戦に参加する。その後徐州会戦・武漢攻略作戦に参加して昭和14年に帰国する。帰国後師団改編により歩兵第三六連隊は第二八師団に移籍する。
昭和15年に再び満州駐箚により渡満、そのまま太平洋戦争を迎えた。昭和19年には中部太平洋の要衝、マリアナ諸島サイパン島防衛の為に満州より抽出される予定だったが、サイパン島守備隊全滅により派遣中止、そのまま第三二軍に編入されて沖縄防衛の任務につく。当初第九師団は沖縄防衛の主力として沖縄本島南部に配置、陣地構築を行い上陸軍に対し水際防衛の撃滅作戦を行う予定だったが、突如台湾派遣が決定した。これは台湾防衛の第十師団をフィリピンに抽出した為の穴埋め処置であった。第三二軍司令官牛島満中将は猛反対したが受け入れられず、第九師団は台湾に進駐することとなる。その後米軍は台湾を飛び越して沖縄に侵攻、結局第九師団は米軍と戦うことなく終戦を迎えたが、沖縄戦では第九師団抽出の代償として水際防衛を破棄、持久戦態勢に変更するという結果となった。
部隊編成  創設時     歩兵第七連隊(金沢) (第三師団より転入)
歩兵第十九連隊(敦賀) (第三師団より転入)
歩兵第三五連隊(富山)
歩兵第三六連隊(鯖江) (第二八師団に転出)
山砲兵第九連隊
終戦時   歩兵第七連隊(金沢)
歩兵第十九連隊(敦賀)
歩兵第三五連隊(富山)