帝國陸軍の航空機
(海軍機解説はこちら)






  
太平洋戦争当時の主要陸軍航空機解説です。・・・簡略解説ですが。
詳しくは余所のサイトなり本を見てくださいね。好きだけど、詳しくはないので・・・おいらΣ( ̄▽ ̄;)あまり気にしちゃだめ(^^; ということで。 ここではほんと〜に概略の説明だけです。各派生型等については別枠で解説します。・・・・全部じゃないですが(^^;

   
機種別リスト
戦闘機 戦闘機(試作機)
偵察機 直協機
襲撃機 軽爆撃機 重爆撃機
輸送機 その他

     

戦闘機



  中島 九七式戦闘機《キ27》 
  格闘戦至上主義で造られた最後の傑作機。海軍航空隊の九六艦戦に負けないように徹底した格闘戦(旋回)能力は優秀であったが、武装の貧弱さと防弾装備の欠如は大戦中には致命的であった。
開戦時には既に旧式機であったが、緒戦のマレー作戦等ではそれなりの戦果を上げている。





中島 一式戦闘機《キ43》 「隼」
九七式戦に続き試作・正式採用された戦闘機であるが、その試作機指示の段階での運用思想の欠如・技術の限界無視といった点からみると完全なる失敗作であった。軽戦である九七式戦闘機を大型化し、引込み脚の採用、航続距離の延長だけを行ったような非力な戦闘機である。幸い航続性能故に緒戦の南方戦線で活躍できた。しかし・・・
それでも陸軍戦闘機最多の5751機が製造され、敗戦の日まで戦い続けた戦闘機である。
《隼》を装備した部隊としては有名な部隊は飛行第六四戦隊『加藤隼戦闘隊』が存在する。

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中島 二式単座戦闘機《キ44》 「鐘馗」
陸軍初の速度を重視した重戦闘機である。軍の要求する速度を確保するために当時の戦闘機用発動機では馬力が足りないため重爆用の大馬力発動機を採用した。結果、離着陸時の視界不良と低速での安定性に問題があったが、当時は世界の戦闘機の趨勢は重戦闘機に傾いていた事と同時期に試験した重戦キ60より旋回性よく、ドイツのBf109Eよりも速度性能で勝っていため正式採用された。
ただ当時のパイロット達は格闘戦重視であり、重戦についての運用方法についてあまり関心がなかったためあまり活躍の場が無かった。同時期に複座戦闘機の『屠龍』が採用されたため本機を《二式単座戦闘機》としている。





川崎 二式複座戦闘機《キ45改》 「屠龍」
陸軍初の双発戦闘機だが、世界で双発複座戦闘機が流行していたために試作・採用されたものであり、明確な目的があってのものではなかった。しいていえば爆撃機の長距離援護と地上攻撃であった。
昭和19年からは本土に来襲するB29迎撃部隊で多く使われ、B29初の空襲を迎撃したのは本機であった。その後陸軍の夜間邀撃戦力として上向き砲を搭載した機体が夜間戦闘機の主力として活躍した。





川崎 三式戦闘機《キ61》 「飛燕」
川崎航空機が開発した太平洋戦争に唯一参加した液冷戦闘機である。ドイツ・ダイムラーベンツの液冷エンジンを国産化して使用しているため、ドイツ・イタリア系のような日本離れしたデザインである。
一部の機体はドイツ製20mmマウザー砲を装備している。
しかし液冷発動機を日本の整備兵、そして工作技術がドイツのレベルについて行けず、不調機・未稼動機続出し、大戦後半には各戦隊はまとまった機数を揃える事が出来なかった。

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中島 四式戦闘機《キ84》 「疾風」
陸軍が《大東亜決戦機》として期待をかけ、奇跡の発動機・小型軽量高出力を誇った《誉》発動機を装備する傑作機・・・になるはずであった。しかし量産機では品質低下、工員の錬度低下等の国力の問題が一気に表面化し、発動機にいたっては最後まで問題が続出・解決しなかった。
それでも生産機数は戦闘機第3位の3000機以上。大戦後半の月間生産機数は日本最大であった。
大戦後半の陸軍主力戦闘機として各地で戦闘を繰り返した。
余談としては、戦後米軍仕様の高オクタン燃料とプラグを仕様することによって当時の米軍機を上回る性能を発揮したとも言われる。





川崎 五式戦闘機《キ100》
液冷発動機の生産数が不足し、また生産しても不調機が多かったため、発動機なしの機体だけの三式戦闘機《飛燕》に爆撃機用の旧式空冷発動機を搭載する事によって戦力化しようとした窮余作の戦闘機であったが、結果日本陸軍最後の制式戦闘機にして日本の最高傑作戦闘機のひとつに数えられる優秀機が誕生した。
最高速度こそ多少低下したものの、重量の軽減・運動性・上昇性と軒並み大幅な性能向上がはかられてしまった。惜しむらくは航空行政がしっかりしていればあと2年は早く誕生していても不思議ではない機体だけに非常に残念な戦闘機であった。

詳細は《三式戦・飛燕》の項目内を参照
   
 
      

戦闘機(試作機)



三菱 キ18/キ33試作戦闘機
   画期的な高性能機として誕生した海軍の三菱九試単戦(のちの96艦戦)を陸軍がメンツを捨ててまで海軍の許可をとり採用テストした機体である。
ただ採用する気はなく、本機のデータを中島・川崎の両社に提供するのが目的であった。その結果生まれ、採用されたのが中島のキ27(後の97式戦)である。
本機は細部以外は9試単戦と殆ど同じである。





川崎 キ28試作戦闘機
  三菱キ33・中島キ27と共に川崎が昭和11年の陸軍次期新型戦闘機競作審査に応募した川崎の試作戦闘機。液冷エンジンにに執着した川崎らしい機体であり、土井武夫技師が設計主務者をつとめた。速度・上昇力で他の2機を上回ったが旋回性能が及ばなかった為、当時の陸軍は軽戦至上主義であり、採用されなかった。





川崎 キ45試作複座戦闘機
日本最初の複座戦闘機として昭和14年に完成。
当時は複座戦闘機がどのような状況下で有効に使えるのかさえハッキリしない状況であり、試行錯誤の上での設計であった。搭載した発動機の不調もあり、性能要求速度540km/hに及ばず480km/hにとどまった。設計面の問題もあり採用にはならなかった。
本機の2次性能向上機がキ45改「屠龍」として正式採用されている。





三菱 百式司令部偵察機V型防空戦闘機《キ46V改》
全陸海軍機の中で実用機最高速度630km/hを誇った高速偵察機、百式司令部偵察機V型に着目した陸軍が対B29迎撃用防空戦闘機に改造した機体である。
機種を改造して20o機関砲2門搭載した。それ以外にも胴体に中央上部にホ204 37o上向き砲を搭載したV型乙+丙と呼ばれる機体も少数存在する。





川崎 キ60試作戦闘機
キ40鐘馗とともに防空用戦闘機として陸軍が試作を命じた重戦闘機。昭和16年3月に1号機が完成し重武装とドイツ・ダイムラーベンツ製DB601液冷発動機を装備、最高速度600km/hを狙った画期的重戦闘機であった。
審査においてキ44・Bf109Eと比較されたが、格闘性能(旋回戦闘性能)がキ44に劣るとして不採用になった。重戦闘機に格闘性能を求めるあたりに陸軍航空行政の運用思想の無さが見て取れる。もっとも当初予定した速度が出せずに最高速度560km/hにとどまったという問題もあったのだが。
本機の経験はむしろ同時に計画され軽戦を目指したキ60飛燕に受け継がれている。





川崎 キ64試作高速戦闘機
昭和14年当時に考えられるあらゆる手段を用いて最高速度700km/hを目指す高速戦闘機として開発された試作機。
ハ40液冷エンジン・2重反転プロペラ・蒸気式表面冷却装置、あらゆる方法が採用されたが、結局当時の技術力が追いつかず問題が山積みであった。このため1機だけ製作・完成したが昭和19年末に開発中止となった。
試験機であったため武装は搭載しておらず、完成していれば驚異的性能を有するはずであったが、結局当時の技術力では扱いきれなかった。





三菱 キ83試作遠距離戦闘機
昭和16年にキ45改屠龍の後継機を目指した爆撃機援護用の長距離双発戦闘機である。
管理人にとっては双発戦闘機の中ではもっとも美しいと思っているデザインあり、ぜひ量産化してほしかった。
計画最高速度704km/hを計画したが実際には・・・ 完成は当初より大幅に遅れて昭和19年10月。4機が完成したが空襲と事故により3機が失われた。
戦後米軍により接収・飛行実験したところ、米軍使用の高オクタン燃料とプラグを使用した結果762km/hという快速ぶりを発揮し設計の優秀さを証明した。





中島 キ87試作高々度戦闘機
排気タービン過給器を装備するであろう米軍機に対抗すべく中島に試作指示された高々度戦闘機。
日本では排気タービン過給器の開発が遅れており、実用化できるかどうか怪しかったにも関わらず『ハ219』発動機の搭載を予定して開発、昭和20年2月に1号機が完成した。
日本の単座戦闘機としては前例が無いほどの巨大戦闘機となり、強力な武装と装備したが、発動機の不調とあいまって試験飛行5回行った時点で終戦となった。
ちなみに高々度戦闘を目指した割には操縦席に与圧装置は装備されておらず、かわりに酸素ボンベを大量に積むという方法をとせれていた。





川崎 キ88試作戦闘機
米陸軍採用のP−39と同様にプロペラ軸内砲を搭載しようとした試作機。発動機を操縦席後方に移し、前部分に軸内用37o砲を搭載しようとしたが、試作機の最終組立直前の昭和18年9月に開発中止となった。





立川 キ94-T試作戦闘機
キ87と同時期に開発された高々度戦闘機であり、世界でも数少ない串型双発発動機・双ブーム式という変わった形式をもつ戦闘機である。
極めて特殊な形式をもつ機体ではあるが理論上は問題がない筈の機体構造である。ほぼ同時期に世界中で同様の機体が数機種計画されているが、やはりお互いに変な機体構成だとして計画変更を余儀なくされている。
本機も昭和18年12月のモックアップ審査の際に非実用的と判断され再設計を命じられている。





立川 キ94-U試作戦闘機
上記のキ94-T型の再設計機体として試作されたのが本機である。
計画が全面変更され極々普通の戦闘機として計画された機体であるが、排気タービン・与圧式操縦席・重武装と計画され、キ87を上回る性能の高々度戦闘機として完成する予定であった。ただし資材不足からたとえ完成しても戦力として使えたかどうかは疑わしい。
全体的な作りはP47サンダーボルトの胴体を細くしたような日本機には滅多にない巨大戦闘機であった。





川崎 キ96試作双発戦闘機
キ45改に代わって試作指示された双発戦闘機であり、対大型爆撃機迎撃用に開発された。
重武装・高速化・高々度飛行を目指したが、キ45の改修では無理が生じ、まったくの別開発となった。試作機3機が完成したが実用には向かないとの判断により開発中止。
しかし当時の高々度戦闘機としては上昇力(高度10,000mまで17分(非武装状態))、速度600km/hと実用にもっとも適していたと思われる機体であった。
本機は単座戦闘機として開発されたが、のちにキ102に引き継がれることとなる。しかし戦闘機型(しかも複座)のキ102甲型が結局実用化されずに終わった事を見ると、本機を採用しなかったことが悔やまれてならない。





川崎 キ102試作戦闘機/襲撃機
キ96をベースに改修された機体であり、当初は複座に戻した襲撃機として開発された。
早々に生産命令がでて南方作戦用に使用される予定であったが、マリアナ海戦後にはB-29に備える為に再び高々度戦闘機として開発を命じられている。
戦闘機型を甲、襲撃機型が乙と呼ばれた。ただし戦闘機型は排気タービン過給器装備型として先に完成していた乙型からの改造機として25機が完成したが実戦化はされていない。
襲撃機型は完成後フィリピン戦線に送られたが、その多くが空輸中に撃墜されるという有様であった。
他に上向き砲とレーダーを装備した丙型が試作されたが、実用化はされていない。

       

偵察機



乙式一型偵察機
仏・サルムソン2A2偵察機。
陸軍航空最初の偵察機・・・というよりも、仏・航空教育団を招いた際に合わせて購入した教材機であった。購入機体数は80機。
そのほかに陸軍及び民間企業として川崎造船飛行機科(後の川崎航空機工業(株))が発動機サルムソン9Z(液冷星型9気筒 230馬力)のライセンス生産権を取得した。その後ライセンス生産を始めるが、川崎側とは違い陸軍では契約外の機体の生産まで行った為、サムルソン社との間で問題が発生している。
最終的にライセンス生産機937機、輸入80機、合計1017機という、揺籃期の陸軍航空を支えた機体となった。
輸入当初(1919年(大正8年))はサ式ニ型偵察機と呼称されていたが、1921年(大正10年)の機体名称基準改正により乙式一型偵察機と改称された。





川崎 八八式偵察機
乙式一型偵察機の後継機として開発・採用された機体。
1926年(大正15年)8月より始まった川崎・三菱・石川島の3社による競合試作であり、川崎が勝利して1928年(昭和3年)に八八式偵察機として採用された。生産は川崎の他に石川島でも187機がライセンス生産され、合計710機が生産されている。
また本機は汎用性が高く、若干改修された上で八八式軽爆撃機としても生産されている
満州事変の際には1個中隊が関東軍飛行隊に編入され出動。偵察機でありながらも応急的に爆弾懸吊装置を取付爆撃任務にも出撃している。





三菱 九二式偵察機
八八式偵察機の競合試作に破れた三菱が自主的に開発した機体。
当時偵察機に対する明確な方針が定まっていなかった時期に、前線で必要とされる要望や、用途に応じた専任機として陸上部隊の耳目として小回りの効く小型軽偵察機として開発された。
1932年(昭和7年)に正式採用されたが、日中戦争勃発時には旧式化していた。また小回りが効き、不整地での運用(離発着)に良く耐えたが、低速故に華々しい活躍とは無縁であった、だが本機の存在により、以後直協機という機種が誕生する契機となった。
生産は三菱(約130機)・陸軍航空工廠(約100機)合わせて約230機である。





中島 九四式偵察機
九二式偵察機の性能不足から来る前線での不満故に、同仕様の偵察機の追加試作が命ぜられ開発・採用された偵察機。
陸軍の航空器材研究方針により『キ4』の番号が与えられた機体であり、航空本部技術部 安藤技師が中島に派遣されて直接指導の下、開発が行われた。その結果九二式偵察機の欠点を補う形で開発され、さらに小型爆弾を搭載しての攻撃力強化と、敵戦闘機との空中戦をも視野に入れた機体が完成した。
1934年(昭和9年)に制式採用され、翌1935年(昭和10年)より部隊配備が開始。日中戦争において偵察部隊の主力として活躍する。
初期型の甲型、爆弾架の装備・排気管・不整地用低圧車輪を装備した乙型が存在し、中島(200機)の他、立川飛行機(57機)・満州飛行機(126機)でもライセンス生産され、計383機が生産された。





三菱 九七式司令部偵察機
キ15として三菱一社への特命試作が命ぜられ、開発された高速連絡機。
従来の航空用兵思想から空軍的用兵への転換により、新たに求められた親機種として司令部偵察機(1937年(昭和12年)2月に打ち出された『陸軍航空本部航空兵器研究方針』により規定)という機種が誕生した。
開発にあたっては小型単発複座機であり、優先項目は『水平速度』ただ1点だけという徹底振りであった。その他の制約がまったく無い状態であった為、三菱側では全金属製単葉機として僅か10ヶ月で試作1号機を完成させるという異例の早さであった。
1936年(昭和11年)に試作1号機が480km/h(高度4,000m)という高速性能を発揮した。(当時の主力戦闘機九五式戦闘機(複葉機)の最高速度が400km/h) だが即採用とはならなかったが、翌1937年(昭和12年)に通達された上記の『陸軍航空本部航空兵器研究方針』により司令部偵察機のカテゴリーに該当する機体として暫定的に採用が決定。各部の改修が行われた後、初代司令部偵察機となった。
また制式採用前に試作2号機が朝日新聞社が企画した欧亜連絡飛行に貸与され、『神風号』として東京〜ロンドン間を94時間17分56秒(総飛行距離15,357km 平均速度162.8km/h)で飛行し、都市間連絡飛行の当時の世界記録(FAI公認記録)を樹立した。
本機の生産機数は各型合計437機。
尚、当初長距離偵察機を持たなかった海軍でも採用され、九八式陸上偵察機として50機を調達している。





三菱 一〇〇式司令部偵察機
1940年(昭和15年)に制式採用された戦略偵察機。
前作九七司令部偵察機が暫定的に採用された