東京裁判
1946年(昭和21年)1月19日 〜 1948年(昭和23年)12月23日

 

今更東京裁判について書いても、それこそ詳しく書かれたサイトがいくつもあるので、ココでは簡単に・・・それこそ基本中の基本だけを押さえることとします。自分の勉強のために・・・(えっ


極東国際軍事裁判の流れ
 
正式には『極東国際軍事裁判』といい、日本が降伏して終結した第二次世界大戦を、連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた裁判である。一方、ドイツ・イタリア等に対して戦争犯罪人を裁いたのが『ニュルンベルク裁判』である。

1946年(昭和21年)1月19日   極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められる。
1946年(昭和21年)4月26日 条例の一部改正。
1946年(昭和21年)4月29日 起訴
1946年(昭和21年)5月3日 審理開始
1948年(昭和23年)11月4日 判決の言い渡し
1948年(昭和23年)11月12日 刑の宣告
1948年(昭和23年)12月23日 絞首刑執行

日にちを見ていただけると、昭和天皇・平成天皇(当時皇太子)の誕生日に搦めていることがわかる。ちなみに裁判にかかる費用は全て日本の負担とされた。

判事は全て連合国(つまり戦勝国)から選ばれている。
ちなみにここでいう戦勝国とは以下の11ヶ国である。

 アメリカ、英国、ソ連、フランス、オランダ、中華民国
 オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、フィリピン

裁判の訴因は最終的に10項目に纏められ、これについての裁判となった。
(訴因番号は全部で55項目あり、このうちの10項目以外は他の訴因と重複するとの理由により除外されている)

(1)   侵略戦争遂行の共同謀議
(27) 対中国侵略戦争遂行
(29) 対米侵略戦争遂行
(31) 対英侵略戦争遂行
(32) 対蘭侵略戦争遂行
(33) 対仏侵略戦争遂行
(35) 張鼓峰事件遂行
(36) ノモンハン事件遂行
(54) 違反行為の命令、授権、許可による法規違犯
(55) 違犯行為防止責任無視による法規違犯

裁判の結果は多数決による判決であったが、この判決に賛成したのは以下の6ヶ国であった。
(アメリカ、英国、ソ連、中華民国、ニュージーランド、カナダ)

別個意見書を提出した上で、結論として判決に賛成した国は2ヶ国
(オーストラリア、フィリピン)

判決に部分的に反対した国は2ヶ国
(フランス、オランダ)

全面的に反対した国は1ヶ国
(インド)

以上の多数決により判決は決定した。ちなみに唯1ヶ国反対し、日本の無罪を主張したのがインドであり、このインド判事が『パール判事(ラダ・ビノード・パール ヒンドゥー教法哲学の専門家)』であった。

尚、この東京裁判に多くの問題点があったことが後年知られている。
戦勝国が一方的に敗戦国を裁き、戦勝国の報復という意見がある。
以下にいくつかの問題点を上げてみる。

(1)   原子爆弾の使用など連合国軍の行為は対象とされていない。
(2) 日本の法曹関係者による裁判への協力がなかった。(おこなえなかった?)
(3) 戦争を遂行するまでの過程が十分に明らかにされていない。
(4) 日本側から提出された弁護資料がほぼ却下された。
(5) 検察側の資料はたとえ伝聞のものであっても採用された。
(6) 派遣された判事のうち、自国において裁判官の職を持っていない者がいた。(中華民国)
(7) 公用語(英語)及び日本語を使用出来ない者がいた。(ソ連・フランス)

このような問題を含めて、東京裁判が現在批判の対象となっているのは、ひとえに『戦勝国の報復裁判』だからである。
もし戦争犯罪が公平なものであるならば戦勝国の犯した戦争犯罪も裁かれなければならないにもかかわず、一切が不問とされているからである。



『東京裁判』及び『ニュルンベルク裁判』で有罪判決を受けた者を『戦争犯罪人』・・・戦犯と呼ぶ。
受けた判決により3つの項目に分けられ、それぞれ『A項目戦犯』『B項目戦犯』『C項目戦犯』に分類され、この分類は罪の軽重を示す意味は含んではいなかった。だが実際には『A項目戦犯』がもっとも罪が重いと考えられ、結果 刑も重いものが適用された。
以下に各項目のついて説明する

(A項目)   『平和に対する罪』
  平和に対する罪即ち、宣戦布告を布告せる又は布告せざる侵略戦争、若しくは国際法、条約、協定又は誓約に違反せる戦争の計画、準備、開始、又は遂行、若しくは右諸行為の何れかを達成する為めの共通の計画又は共同謀議への参加。
 
(B項目) 『通例の戦争犯罪』
戦時国際法における交戦法規違反行為
 
(C項目) 『人道に対する罪』
国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人奴隷化、追放その他の非人道的行為。
但しこの法概念に関しては当時も賛否の意見が分かれていた。ちなみに
日本の戦争犯罪とされるものに対しては適用されなかった。
 

戦争犯罪人のリストアップは戦中・戦後と行われた。集められたリストは連合国戦争犯罪委員会に提出され、日本人容疑者は440名であった。だが中華民国が重慶に設置したされた『連合国戦争犯罪委員会極東太平洋小委員会』では日本人を対象に独自のリストを作成。また連合軍東南アジア司令部でもリストを作成し、それぞれ3,158名と1,117名がリスト化された。他にもリスト化されていない者も各捜査機関の判断により逮捕・調査が行われた。

終戦後、マッカーサー元帥は厚木に到着すると直ちに戦犯容疑者の逮捕を命ずる。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、1948年7月1日までに2,636名に対し逮捕令状を出す。このうち2,602名が逮捕された。また連合軍東南アジア司令部は1946年5月の時点で8,900名。そのほかにも多数が逮捕され、第一復員局法務調査部では1946年10月の時点で約11,000名が海外で逮捕されたと推計している。
他に戦犯になることを抵み、自殺した者や逃亡したものもいる。



A項目戦犯(A級戦犯)
上記に記載したが、この項目は『平和に対する罪』を犯した者であり、所謂戦争を起こした日本の指導者層を裁こうとしたものである。A項目にて逮捕拘束された者、約200名。内、起訴されたのは全部で28名。このうち2名は判決前に死亡(病死)し、1名は精神障害が認められ訴追免除となった。残り25名中であるが、実は内1名は絞首刑とされるも、実はA項目『平和に対する罪』においては無罪であった為、A項目(A級)戦犯ではない・・・・とも言われている。

死刑(絞首刑) 7名
  板垣征四郎   東條英機   松井石根 土肥原賢二
木村兵太郎 廣田弘穀 武藤 章

終身刑 16名
荒木貞夫 小磯国昭 橋本欣五郎 梅津美治郎
佐藤賢了 畑 俊六 大島 浩 嶋田繁太郎
平沼騏一郎 岡 敬純 白鳥敏夫 星野直樹
木戸幸一 賀屋興宣 南 次郎 鈴木貞一

有期禁固 2名
重光 葵 (禁固7年)
東郷茂徳 (禁固20年) *獄中死

判決前に病死 2名
永野修身 松岡洋右

訴追免除 1名
大川周明 (梅毒による精神障害の為)
  


さらにA項目(A級)戦犯被指定者でありながら不起訴により戦犯とならなかった者や、裁かれる事を不服とし自殺したものたちが多数居る。
 
主なA級戦犯被指定者
不起訴により釈放
  岸 信介 高橋三吉 児玉誉士夫 笹川良一
自殺
近衛文麿 本庄 繁 橋田邦彦


A級戦犯の遺灰

処刑された7人の遺体は横浜の久保山火葬場で火葬された。遺骨は米軍により東京湾に捨てられたという。だが12月25日、小磯国昭の弁護人だった三文字正平氏密かに遺灰(7人分が混ざった状態)を回収しており、近くの興禅寺に預けた。
1949年5月、伊豆山中の興亜観音葬られる。
1960年8月16日、愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山、山頂付近に移設。『殉国七士廟』が設けら、殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置された。



B項目戦犯(B級戦犯)
これも上記に記載したが、『通例の戦争犯罪』・・・所謂『戦時国際法における交戦法規違反行為』を行った者たちである。
その数、実に11,000人以上に及ぶ。問題はその裁判を行った場所・方法・起訴方法であった。
連合国軍最高司令官総司令部が逮捕状を出したのが2,636名であったのに対し、英国軍が主体の連合軍東南アジア司令部では8,900名以上。そしてそれ以外にソ連軍や、アジア各国で逮捕された者たちがいた。
公式に残されている記録では2,244件中、5,700名が起訴された。だが、この他にソ連・中国で逮捕・投獄された者が存在する。
裁判方法は所謂軍事法廷であり、弁護士をつけられはしたものの、不当な扱いを受けたりで無実の罪で判決を受けた者たちも多数いたという。処刑された者の数は約1,000人であった。



裁判に関する問題点
戦後の調査によると、起訴件数は2,244件に対し、5,700名が起訴された。(但しソ連及び中国起訴は除く。正確な数字がまったく不明の為)
軍事法廷である為、形式上、裁判は一審制であったが弁護士はつけられた。だが問題がなかったわけではない。ソ連・中国・オランダによる法廷は特に杜撰な法廷であり、不当な裁判であったといわれる例が多々存在する。まさに勝者による不当な報復裁判であり、無実の罪を背負わされる事例が多数存在した。
ろくに調査することなく伝聞による調査や、虚偽の証言、通訳不備などもあった。
『捕虜に牛蒡を食料として提供したら木の根っこを食べさせられた』とか、『腰痛の捕虜にお灸を据えたら虐待されたと証言した』とかが有名な事例である。
だが対応した国による差もあり、特に弁護士がつけられた点を考慮すれば、まま公平な裁判であったとは言われている。一部に報復裁判があったことは事実であるようだが・・・
国外で逮捕された者たちは、それぞれの管轄の法廷により裁かれた。主に中国各都市(北京・南京・上海・漢口 他)、香港、ラングーン、バタビア 等々でである。国内は横浜にて法廷が開かれた。
特に国内で逮捕された者の中には、既に自宅に戻っていた者たちが多く、突然の出頭命令により出頭したまま2度と戻ることが叶わなかった者も多数いた。戦犯として裁かれるということさえ知らずに出頭し、そのまま死刑判決が出され、家族に面会することも叶わず、その上遺書等を残すことさえ禁止された。

彼等戦犯として処刑(または獄死)した者達は、戦時中の戦死者同様、靖国神社に祭られた。



また、東京裁判最大の問題が『事後法』によって裁かれた裁判だということである。本来この裁判は法律上成立し得ないものである。事後法では法律制定以前の罪状は罪には問えないものであり、法律上不当であり、そもそも裁判として成立し得ないのである。
なにより国際法の常識では、占領軍は占領地の国内法を尊重しなければないものであり、基本的な決めごとすら無視していのである。(この常識が当時の常識・・・と100%とは言えない所が悲しくもあるが)

なによりもこの裁判自体が当初より結論在りきで進められていたとも言われており、不当であると言える。だが、日本政府はサンフランシスコ講和条約第11条で東京裁判の判決を受諾しているのである。
あとは如何に戦犯の名誉回復を行うかであった。



名誉回復
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した。
この第11条において戦争犯罪に関する項目が存在する。

第11条(戦争犯罪)
  日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。

当初は極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われた。だがサンフランシスコ講和条約の発効により戦犯の国内法上の解釈変更が通達された。これにより戦犯拘禁中の死者はすべて『公務死』とされた。また戦犯逮捕者は『抑留又は逮捕された者』として取り扱われる事となる。さらに『戦傷病者戦没者遺族等援護法』の一部改正により戦犯としての拘留逮捕者は『被拘禁者』と扱われるように変化した。

1952年(昭和27年)の『戦犯在所者の釈放等に関する決議』及び『戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議』、翌年の『戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議』が可決され、『恩給改正法』では受刑者の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定さた。
1955年(昭和30年)には『戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議』が可決。そしてサンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は1956年(昭和31年)、釈放されたのである。

戦犯の名誉回復に関してはいろいろな意見が存在する。

(1)   『日本政府は公式に戦犯の名誉回復を表明してはいないが、A級戦犯指定者が内閣総理大臣や大臣に就任している事実より実質上は名誉回復されている』
 
(2) 『戦犯は国際法によって裁かれたもので、国内法上の犯罪者には該当しないため、名誉回復の必要性自体が存在しない(名誉が損なわれていないので、回復する必要がない)』
 
(3) 『赦免を以って名誉回復とするか否かは議論の別れるところだが、他方で、法治国家に於ては法の定める刑の執行が完了した時点で罪人から前科者へと立場が変わるので、刑の執行が既に済んだ者をその後も罪人扱いすること自体が法治国家にそぐわない野蛮な行為である』
 
(4) 『東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決をくつがえす新たな国際法廷は開かれていない。国際社会においてA級戦犯は今も戦争犯罪人として認識されている。また、日本政府も同様の立場を取っている。故に、戦争犯罪者であるか否かだけを問題とするのなら、彼らの名誉回復は為されていないことになる。』